ENGLISH SPEECH CONTEST 〜和訳〜
 
 10月23日、英語スピーチコンテストが多賀城校舎で開催 されました。出場したのは外国語コース1、2年生の生徒6人。彼女たちは2ヶ月間の練 習の成果 を出し切り、素晴らしいスピーチを披露してくれました。そして厳正な審査の 結果 、1位は2年1組庄子真紀子さんと2年2組小野さやかさんの2人、2位には1年1組 村上結花さんが選ばれました。
 今回は6人のスピーチと、Oral Communication Teacherのジェイムズ・グリ ーン先生のメッセージを紹介します。
 
第1位
2年1組
 庄子 真紀 子
メディア戦略につ いて

 昨年の9月に起こったニューヨークの テロ事件、そこから始まったアフガンへの報復攻撃、インド、パキスタン、イスラエ ル、パレスチナの紛争など、世界には多くの戦乱が相次ぎ、私たちがこうして生活し ている現在も、戦争は続いています。
  私は戦争を体験したこともないし、その本当の恐ろしさを知りません。 ですが、テレビに映る戦地の人々を見ると深い憤りを感じます。いつか戦争で苦しむ 人、特に女性や子どものような弱い立場の人を守れる仕事に就きたいと思うようにな りました。
  戦争には、歴史背景や、民族、宗教観など、様々な問題が複雑にからみ 合っていますが、その争いを左右する最も大きな要因の一つがメディアの力だと本で 読みました。私たちが普段目にするテレビや新聞、それらが時に戦争の勝敗を左右 し、一国の運命を決定づけ、その国の人々の運命をも狂わせる力を持つのです。
 1990年代、ボスニア・ヘルツェゴビナは軍事的に優位なセルビア人の攻撃 をうけていました。そこでボスニア・ヘルツェゴビナ政府は、アメリカのPR会社と契 約。セルビア人の残虐性を次々に報道したのです。当時、日本でも、一方的にセルビ ア側を非難した報道がされました。 これがメディア戦略です。メディア戦略に長け、世論を味方につけることが できた方が勝利を収めるという、この事実を知った時、私は悲しくなりました。戦争 をまるで商品のように売り込んで、人の命を物のように扱うのです。
 しかし、この事実にはまた、もう一つの大きな問題を含んでいたのです。 これまで遠い国で行われてきたと思っていたこれらの争いに、少なからず私たちにも 責任があるということです。与えられた情報を鵜呑みにし、周囲の勢いに流され物事 を見てきたのは私だけではないはずです。 本当にメディアが伝えたように、セルビア人だけが悪でボスニア・ヘルツェ ゴビナが被害者だったでしょうか? そう私たちに思いこませるのがメディア戦略の 目的なのです。どちらか一方が正しい戦争などありえないのです。
 まだ記憶に新しいアフガニスタンへの報復攻撃のニュースですが、それら の映像・記事もほとんどがアメリカ寄りだったといいます。
 では、私たちはどうすればよいのか。とても難しいことですが、それは自 分との対話以外にないと思います。不確実な情報を吟味もしないでそのまま受け入れ ていないか、そもそも自分はどれだけ事実を知っているか、自分で確認したか、両者 の言い分を聞いたか、悪意のうわさに踊らされていないか…。 情報を与えられた時、そ黷事祉^として受け入れる前に一度冷静にそう考え てみて下さい。平和への道は、こんな所からも始まるような気がします。私も、自分 の夢を叶えるためにも、事実を見極める力を養っていきたいと今、強く感じていま す。

ENGLISH
 
第1位
2年2組
 小野 さや か
忘れられない 少女
 あなたはドイツの平和村というのを知 っていますか?
 それは、“経済的、衛生的、自国の国際情勢などの面で、問題を抱えていて 病気やケガなどの治療がうけられない子どもたちを各地をまわって厚め、通 常の生活をおくれるようになったら国へ帰してあげる”ということをしている 募金のみから成り立っている施設です。私が初めてこの施設のことを知ったのは5、 6年前でした。私はその時初めて戦争への強い怒りをおぼえました。それまではやは り現在の日本のような平和な国に住んでいるためからか“戦争”という言葉があまり 現実的でないように感じていました。しかし、その平和村で子どもたちにとってはそ の言葉があまりに近い存在でした。ショックでした。しかし、その時の私は「自分一 人でどうなる問題でもない」と考えてしまい、その戦争や子どもたちへの気持ちを自 分の中に封印してしまいました。
 しかし、その数年後、ドイツの平和村がテレビでとりあげられているのを見 ました。そこの状況は良くなるどころか悪化しすぎていました。その背景にはたくさ んのことがありましたが、主にはアメリカ、アフガニスタンの戦争でした。平和村に はたくさんのアフガニスタンの子どもたちがいました。その中にいた12歳の女の子に 私はあの時の感情をはるかに越えた怒りと悲しみを思い出させられました。
 平和村では、すべての回復しつつある子どもたちに一時帰国の機会が与えら れることになっています。しかし、彼女たち、アフガニスタンの子どもたちにはそれ が与えられませんでした。アフガニスタンが戦時下にあったからです。他の国の子ど もたちは親や兄弟のもとへ次々と帰国していきました。そのなかでアフガニスタンの 子どもたちは帰国してゆく他の子どもたちをうらやましそうに見て泣いていました。 その中でその12歳の少女だけは涙を見せずに、みんなのことを励ましていました。そ して彼女は部屋に戻ると、一人声を殺して泣いていました。そして彼女はカメラマン に“なぜ私たちは何もしていないのに他の子どもたちのように家に帰れないの? お 父さんやお母さんに会えないの?”と話していました。あなたならなんと答えます か? 彼女の言っていることはもっともです。彼女たちは何もしていません。それど ころか私たち以上に毎日を一生懸命 生きていると思います。それなのに少数の勝手な大人たちによって彼女たちの ような無関係な人々までもが大きな被害をうけているのです。どちらかというと無関 係の人々の被害や損害のほうが大きいと思います。これは今回のアメリカ、アフガニ スタンのことだけにかかわらず全ての戦争においていえることだと思います。その事 実は私だけの努力ではそうなるものでもないと思います。しかし私は彼女の涙を見 て、このままただ何もせずに昔のように終わらせるのが嫌だったので、そのことを後 日友人に話しました。
 すると、友人も似たような考え方をしていて私の気持ちを理解してくれまし た。そして二人で話し合い今の私たちに出来ることを探しました。そこで私は昔の自 分の考えの単純さに気付きました。私たちが話し合うべきなのは、戦争をどう阻止す るか」ではなく「困っている人々に何が出来るか」だったのです。そして私たちは平 和村への募金活動をすることに決めました。私たちの出来る限り、彼らの平和村での 生活を十分…とまではいかなくても、。より快適に生活を些細な努力で彼らが平和村 での彼ら自身の生活を楽しく過ごせるようになるのであれば、そんな幸せなことはな いと思います。今はドイツの平和村のことしか考えていませんが、このさきもっと視 野を広げてたくさんの人々の援助を私たちの出来る範囲でしていきたいと思います。 全ての人々が戦争のことなど考えず、精一杯生きていける世界を夢見ながら…。
ENGLISH
 
第2位
1年1組
 村上 結花
もうひとつの家族
「こんにちは! 私の名前は村上結花で す。はじめまして!」
 これは私が初めて彼らに会った時に言った言葉です。世界中の多くの人々は 病気や戦争のために1つの完全な家族さえ持つことはできません。でも、私は幸いな ことに2つもの家族を手にしています。ここ、日本にいる血のつながった本当の家族 はもちろん、アメリカにも家族がいるのです。ではどうやって彼らと知り合ったのか …。それは約1年前の夏休みにさかのぼります。私は16名の中学生と共に、故郷であ る楢葉町から姉妹都市のオハイオ州ユークリッド市に発ち、そしてホストファミリー である彼らと出会ったのです。
 私のアメリカンファミリーは6人家族です。ーとても大きなパパ、あたたか い心を持ったママ、きれいなケイティー、愉快なジェシー、長身でかわいいマンディ ー、そして愛らしいティミー。 彼らは私やパートナーの優に、とてもやさしくしてくれました。私と優は楽し い時間を過ごし、たくさんの思い出を彼らと一緒につくったのです。私の一番の思い 出は2日目の夜の“ミュージックパーティー”です。このおもしろいアイディアは、 夕食の会話の中の楽器の話題から実現しました。優はフレンチホルンを、私はクラリ ネットを、そして双方ともピアノと歌が好きだと話しました。すると彼らは「私たち はピアノとドラムを持っているんだ。よかったら私たちに、君たちの演奏を見せてく れないか?」と言うので、もちろん私たちはオーケーしました。何しろピアノも歌も 大好きなのですから。優と私は中学校で合唱部に入っていたので、その時に歌ってい た「春に」と「グローリア」を一緒に歌うと彼らはとても喜んでくれました。私たち が演奏し終わると「どうもありがとう!! あなたたちは本当に素晴らしい私の娘だ わ」と言ってくれたのです。それを聞いて私はとてもうれしくなりました。
 最後の夜、私たちはビーチパーティーを行いました。これもまた、私の貴重 な思い出の1つです。全員がボールゲームやビーチバレーでより強く絆を結ばれ、と ても楽しい時を過ごすことができました。でも!! 私にとってこのパーティーは他 のだれよりもすてきな時間だったのです。なぜなら、ある特別 な人たちに会えたから…。
 それはタラ先生のお姉さん、お父さん、お母さんでした。タラ先生というの は中学時代のALTで、今では親友でもあります。そして彼女の家族に会うということ は、私の以前からの望みでした。そして私の願いはかなったのです!! このビーチ パーティーは雨天候でしたが、私は絶対にこの日のことを忘れません。
 別れはいつも悲しいものです。この時も…。
 ユークリッドでの最後の日、私たちはお世話になった人たちに感謝をすべ く、「さよならパーティー」を開きました。このパーティーは私たち日本人の中学生 が計画を練り、楢葉町の笠踊りや盆踊りを披露しました。そして最後に私がホストフ ァミリーとなってくれた数組の家族にスピーチをささげました。「本当にどうもあり がとう!!」と。
 でも、このさよならパーティーは悲しいムードに一転してしまいました。私 たちはユークリッhの人たちやホストファミリーと別 れなければならなくなってしまったのです。
 「ここにずっといてもいいのよ…いえ、永遠にここにいてちょうだい!!」 私の、もう1つの家族は時々冗談でこんなことを言っていました。そして私も「え え、もちろん!! 私はずっとここにいるわ!!」と答えていました。でもとうとう 別 れの時がきたとき、私はそういてあげることができませんでした。ユークリッ ドを離れなくてはいけなかったのです。私たちはたくさんの涙を流し、互いに抱き合 いました。そして「またね」と、やっとの思いで言うことができたのです。
 アメリカンファミリーは私にたくさんのことを教えてくれました。例えば英 語や家族、アメリカ文化のことをー。私たちはたくさん会話をしましたが、私の英語 は十分ではありませんでした、ジェスチャーを交えて彼らが話してくれたおかげで、 私は理解することができたのです。このことは私に、将来の夢についての助けとなり ました。私は英語を通 して世界中の人々と会話をし、彼らからいろんなことを学びたいと考えていま す。また、私は人々が会話できるように手助けしたいとも思っています。なぜなら話 すことの大切さを、私は知っているのですから…。
ENGLISH
 
1年1組
 大柳 美由 紀
いじめについ て
 今日は、いじめについて話したいと思 います。いじめは日本で深刻な問題になりつつありますが、他の国々でも同じです。 例えば、アメリカでは1999年小学校と中学校の生徒の3人に1人がいじめにあっていま すが、その3分の1以上が報告されていませんでした。私もまた、いじめを受けていま した。その話をしたいと思います。
 私が中学生だった時、私はいじめられていたことがあったのでほとんど学校 に行っていませんでした。クラスに友達がいなくなったと感じたり、独りぼっちにな ってしまうんではないかと心配していたので、家にこもりがちになっていました。私 にとって、とても辛い時期だったので、私は、何が起こっているか受け入れることが できなくて、ただ逃げ隠れしていました。その時、誰も私のことを助けようとしなか ったと思います。 もし、そのような事をしたら、彼らもいじめられていたでしょう。そして私は 本当に独りになったのです。
 そのいじめが止んでから少しの間、また少しの友達ができました。どうやっ て彼らはこんなにはやくそして急に気持ちを変えたのか、とても不思議に感じまし た。私はもしかしたら私自身に原因があったのではないかと考え始めました。その時 の私のように、静かでシャイな人たちがいじめのターゲットになってしまうと思いま す。なぜなら私たちは何か間違ったことをしたと思って、自分自身をせめてしまうか らです。
 実際は違います。他の人たちをいじめたりする人々は、強くて権力があるの です。被害者が自分自身を擁護できなかった時に、いじめは引き起こってしまうので す。このことは、とても真剣に考えなければいけません。両親はそれぞれの子どもを 近くで見守り、いじめがあってもコミュニケーションがとれるように子どもの個性を 知る必要があります。そして勇気づけて彼らを守らなくてはいけません。私の場合、 担任の先生がいろいろ手助けをしてくれたのでだんだんといじめに立ち上がっていく ような自信がでてきました。それにはとても長い時間がかかり、何回も死んでしまい たいと思いました。しかし、私はついに心から強くなれたのです。
 なぜ人々が悪いことをしたり、他の人を傷つけるのかを理解するのはとても 難しいです。しかし不幸にもこのようなことはたくさん起こっています。みなさん は、日本では1年に10人、いじめと関係したことで亡くなっているのを知っていまし たか? 私は誰でも時々いじめのような境遇があると思いますし、誰もそれを好みま せん。だから私たちがいじめの現場を見たらいじめを止めるのは私たち次第だと思い ます。そしてどんなにひどい状況でも、お互いにコミュニケーションしなければいけ ません。
 日本では社会的なプレッシャーがたくさんあるので簡単にいじめにあいやす いです。私はそのような状況を経験したので強くなりました。そしていじめていた人 たちに私は申し訳ないと思います。
 このようなことに早く気付けるように、私たちのベストを尽くし、できるだ け減らせるように努力しましょう。みんな楽しい人生を過ごしましょう。
ENGLISH
 
1年2組
 小室 真菜 実
for の時代から with の時代へ
 あなた方は「for の時代からwithの時 代へ」という言葉を聞いたことがありますか? 私はこの言葉を聞いたとき、すぐに は意味を理解することができませんでした。 それは「障害者と健常者は共に生きることができる」ということを表す言葉で す。「for 」とはただ助けるだけで、「with」というのは共に生きていこうという意味で す。
 ある日、私が起きた時、私の視界はとても悪かったのです。目の周りが重た く、太陽などのさまざまな光がまぶしく感じました。そして目の状態は次第に悪くな る一方でした。 お昼になると、目が開けられなくなり、母の手を借りなくては全く歩けなくな ってしまいました。そして 病院に行くと医者は「これは急性結膜炎です。汚い手で目をこすったでしょ う」と言いました。その時私はこれから何も見ることができなくなってしまうのでは ないかと心配になりました。私はこわくなりました。それと同時に目の見えない人は こんな大変な状態の中で生活をしているんだと思い、びっくりしました。そのあと母 と一緒に家に帰りました。医者は結膜炎をうつさないようにそこらへんを触ることを 許してくれませんでした。しかし帰り道で母は私の手をしっかりと握りしめてくれ、 私の不安はなくなりました。彼女はまた家の中でなら自分で歩くこともトイレに行く ことも簡単にすることができました。彼女はすべてにおいて私のために環境を整えて くれました。その時私は貴重な体験をしたことに気付きました。なぜならば障害を持 った人たちにとって環境をよくすることは大切なことだと思いました。私は彼女にと ても感謝しています。
 私は以前に1度車イスに乗ったことがあります。私の祖父は病院に入院して いました。彼は若いときに交通 事故にあい、そのため彼は足の手術をしなければなりませんでした。私は病院 へ家族と一緒に彼をお見舞いに行きました。彼は自分自身で動くために車イスを使っ ていました。私は彼に「車イスを借してもらえる?」と聞くと「いいよ」と言ってく れ、車イスに乗ってみました。すると私は病院の中には段差など車イスにとっての障 害がないことに気が付きました。床は平坦で、トイレはとても広く、車イスを使う人 々にとって使いやすくなっていますた。その上、小さな段差がスロープに置きかわっ ていました。私は車イスを動かしてそのスロープをのぼるために少し力が必要でし た。もし、スロープに直されている段差がそのままだったら、私はそこを乗り越える ことができなかったでしょう。その時私は街のほとんどの道が障害者のことを考えず に作られているのではないかと思いました。日本はきわだってたくさんの段差があり ます。もし道路の設計者が道を設計するときに地球上すべての人々のために設計をし たならば私たちはバリアフリーの社会を作ることができ、同時に段差はわずかになる でしょう。
 あなた方はこの考えについてどう思いますか? 私たちはもっと障害メが自 主的に生活できるような環境を作るべきだと思います。
 私の理想の「for の時代からwithの時代へ」という社会は、車イスを使って いる人々が彼ら自身で動くことができ、目の見えない人がほかの手助けなしに安全に 歩くことができる社会です。今、それは難しいことです。地球上にはたくさんの障害 があります。けれども今私たちはたくさんのことができます。私は通 り道は目の見えない人も歩くので自転車を止めるべきではないと思います。そ して目の見えない人が通 り道で転ばないように缶やビンを道などに捨てるべきではありません。そこで 私たちが行動を起こすことは大切で必要なことだという結論に達しました。あらゆる 種類の人が生きるためによりよく簡単な世界を作るべきなのです。みなさん、地球上 のすべての人のためによい環境で幸せに生きて行けるように世界を作って行きましょ う。
ENGLISH
 
2年1組
 大友 美沙 子
子どもたちの戦争
 想像してほしい。ある日、あなたが通 りで遊んでいたら、兵士の一団がやってきて、あなたの両親や兄弟や姉妹を壁際に並 べ、あなたの手に銃を握らせてこう言うのだ。
 「生きていたかったらこいつらを殺せ」
 あなたはそのときどうするか。
 モザンビークの内戦では、数千人の子どもたちがこれと同じ決断を迫られ た。
 多くの子どもたちが犠牲になった。目の前で両親を殺されたり、中にはまだ 人がいる家に火をつけさせられたり、殺されかけられたりもした。なぜこの戦争は起 きたのか、なぜ両親や家族は殺されたのか。そしてなぜ自分が標的とされているの か。何ひとつわからぬ まま、大人たちから意図的に与えられた精神的苦痛を受け、残忍な人間に作り 変えられていった。自分たちを守ってくれるはずの親を失い、善悪の判断を失った子 どもたちは、どんなに残酷なこともやってのけた。殺人、拷問、これらは彼らにとっ て当たり前のことだった。
 内戦が終わった今も、子どもたちの戦争は続いている。たった8歳とか9歳の 日本ではまだ小学生の子どもたちが、内戦を傷跡を負ってたった一人で生きている。 毎晩、悪夢にうなされたり、寂しくて寂しくてお母さんのことを思い出しながら眠り についていく。二度と抱きしめてはくれない家族、失われた子ども時代。
 私たちが彼らのためにできること、それは世界に目を向け、世界中で起きて いる“子どもたちの戦争”をきちんと受け止めること。決して目をそむけてはならな い。決して遠い国で起きていることと、他人事のように考えてはならない。“過ちは 繰り返されてはならない”私たちが強くそう感じた時、世界がきっと変わるはずだ。 子どもに目を向けてやってほしい。
 1人よりも2人、2人よりも3人。みんなの力を必要としている子どもたちがい ます。
 昨日より今日、今日より明日。子どもたちの泣き声が、笑顔に変わる日を一 緒に作っていきましょう。
ENGLISH
 
2年2組
 阿部 奈津 美
ワールドカップと国 際理解

 先日行われたサッカーワールドカップ の時、道行く多くの外国人観光客を見てどう感じましたか?あれだけ多くの外国人が 街中を歩いているということはめったにないので、私はふしぎな感じを覚えました。 と、同時に(ああ、彼らはサッカー観戦に来ているんだなあ)と思っていたので、外 国人を見かけても私もみなさんもさほど違和感を感じなかったことでしょう。
 しかし、ワールドカップが終わった今現在のことを考えてみてください。 街で外国人を見かけてももう違和感はなくなりましたか? きっとそうではないでし ょう。
 ある日曜日のことです。私が留学生の友達と歩いていたとき、私たちのそ ばを通 りかかる人はたいていこちらを見たり振り返ったりします。その時私の友達 は冗談のように
 “I don't want them to watch me. I'm not a Hollywood star and not even a alien”
と言ったのです。
 もし駅や道ばたなどで外国人と遭遇したとき、無意識のうちに私も同じよ うに振り返ったりじろじろ見てしまっていると思います。
 しかし、彼女と長い時間一緒に行動を共にし、どこへ行っても視線を感じ たのでとても嫌な思いをしました。私はその日、彼女とずっと一緒にいたことで、彼 女のそういう風に言った気持ちが初めて本当にわかりました。
 私たち日本人が外国人に対してそういった違和感を持つ理由として、島国 根性であるということと、新しいものや変わったことを受け入れることが難しいとい う国民的性格から来ていると言えます。そして周りの人と違うことをすると安心でき ない日本人の心理がそこにはあるでしょう。だから今の若者たちの一部は同じような ファッションをしたり行動したりする習性が見られるのかもしれません。
 また、あるラジオ番組では、海外から日本へ来る観光客の割合は他の国々 と比べても下から数えた方が早いと言っていました。それは日本の物価が高いからで しょうか? いいえそれだけではないと思います。それに観光スポットが少ないわけ でもありません。たぶん、外国人が入りづらい環境を私たち1人1人が作り上げている からかもしれません。
 私は声を大にして言いたい。日本が島国だからだとか、言葉の壁があるか らだという以前に、私たち1人1人の心の壁が国際理解を妨げているということに気付 いてください。
 また国家間の古い歴史もまだまだ根強い国際理解の壁になっていることを 忘れないでほしい。
 しかし今若者の間ではそういった壁が少しずつ消えようとしている事実が ここにあります。先日のサッカーワールドカップのことを思い出してみてください。 街には日本のユニホームを着て日本を応援する外国人の姿や日本人が他国チームを応 援するさまざまな姿が多く見られました。私はその時一瞬、単一民族国家であるこの 日本がまるで多民族国家にでもなったような、国境がなくなったような気さえしまし た。今回のサッカーワールドカップで多くの人々がサッカーを通 じて国籍や言葉を越えてコミュニケーションができるものだということを実 感したでしょう。国際理解などに今まで抵抗を感じていた人もワールドカップを通 して気付いたことでしょう。私たち自身が心を開けば国際理解はすぐ手の届 く所にあるということを…。
 世の中には人の数だけ考えや感情があるように、国の数だけ文化や習慣が あります。どの考えや習慣が道理にそっているかと白黒つけることよりも、それぞれ のものの良さ悪さを受け入れられるような柔軟性(flexible)を身につけていくこと が大切だと思います。

ENGLISH
 
最後のメッセ ージ 
ジェイムズ・グリーン先生(オーラル・コミュニケーション)
 (司会者の)真須美さん、和佳さん、今日のアナ ウンス本当にありがとう。
 とてもはきはきしていて、分かりやすくて良かったです。皆さん、2人に拍 手をして下さい。
 私は、沢山「ありがとう」を言いたいです。最初に発表者に。あなた達はと ても素晴らしかった。一人、一人終わる毎にちょっと涙が出てしまいました。あなた 達は2か月間とても一生懸命でした。そして、結果 は本当に偉大なスピーチコンテストでした。全員、今日はベストを尽くしまし た。私達先生方は、本当にあなた達を誇りに思います。しかし、もっと重要なこと は、あなた達が自分自身に誇りを持つことです。英語でスピーチをすることはとても 難しいですが、あなた方はチャレンジをしてベストを尽くしました。
 1位、2位をもらった人、すごい、おめでとう! しかし賞をもらわなかった 人、がっかりしないで下さい。レベルはとても高かったので、審査員がどのようにし て1位 、2位を決めたのか分かりません。私には1位、2位を決められません。それで 私は、今日、審査員でなくて嬉しいです。あなた方は全員とても優秀だったので、賞 は必要ではありません。誇りを持って下さい。
 次に、全先生方に感謝します。出井先生、清水先生、アナ先生、レオン先 生、そして私、このコンテストの為に生徒達を助けてくれました。本当に感謝してい ます。
 そして、今日の審査員に感謝します。審査はこれまでで一番難しかった、ど のようにして決めたのですか! コンテストの為に時間をさいてくれて感謝していま す、そして発表者のスピーチを楽しんだと思います。それで学校から些細なプレゼン トをさしあげたいと思います。Des Callan先生、千葉治先生、Michelle Greco先生 どうもありがとうございま す。どうぞ、彼らに盛大な拍手をお送り下さい。
 最後に、私は加藤雄彦校長先生に感謝の言葉を述べたいです。校長先生には とても多忙なスケジュールの中を、毎年、このスピーチコンテストを楽しみにして出 席していただいております。英語の先生方は、校長先生のスピーチコンテストヘの多 大なサポートを大変感謝しております。
  皆さん、ご出席ありがとうございました。素晴らしいスピーチコンテスト でした。
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