2016/17 Topics  「命の大切さを学ぶ教室」講演会 感想文
 

平成28年度「宮城県・命の大切さを学ぶ教室作文コンクール」
高校生の部 優秀賞受賞

三浦さん 英進進学コース2年 (米山中出身)

一人でも多くの人が、命について改めて考える時間を
私も作ることができたらと思います

 私は、命の大切さを学ぶ教室を受講して、犯罪被害者の家族のお話を聞くことができました。その内容は、自分の娘が被害に遭い、亡くなってしまったというものでした。私はそのお話を聞いて、悲しみと犯人に対する怒りを感じました。このことが、もし、自分の身に起き、大切な家族、友人が被害に遭ってしまったとするならば、私は一生その犯人を許すことはできないと思います。被害者家族の方は、「何年経っても、心の傷は癒えることなく、まるで事件が昨日にように感じる。」 とお話ししていました。大切な人を失った悲しみは、例え何十年経つでも、その人達の心の中から消えてしまうことはないと思います。それでも残された家族は、また普通に日常生活を送っていかなければなりません。


 亡くなった方は、まだ、若かったと聞きました。「これから社会に出て、幸せな生活を送るはずだった。」 と辛そうな表情でお話されていました。この時、私は心が痛くなりました、どれだけ願っても、亡くなってしまった大切な人が戻ってくることはありません。だからこそ、この講話を聞いて改めて命の重み、 大切さを感じることができました。このような時間を作って頂いたことに感謝しています。

 最近も、テレビや新聞などで毎日のように悲しいニュースを目にします。内容もとても悲惨なもので、どうしてもこんなにも簡単に、人へ害を与えてしまうのだろうかという犯人への疑問と、このような犯行をする気持ちが、私にはよく分かりません。人を傷つける行動などは、自分のためにも、周りの人のためにも、何も意味をなしません。それが、どうして分からないのだろうかという怒りも感じます。たった一人の身勝手な行動で、どれだけの人が悲しみ、心に傷を作ってしまうのかを考えるだけで、とても恐ろしいと感じました。人の命を奪う行為、そして、たった一つの大切な命を自ら奪ってしまう行為は、一番やってはいけない事だと思う。そして、決して許されるものではないと思います。

 私は、このような行為が、これからますます増えていくことがない事を願っています。また、今は何もできなくても、社会に出た時や、大人になった時に、私も命についての大切さを、人に教えてあげられるような活動をしてみたいなと思いました。その話を聞いて、一人でも多く、命について、改めて考え直してもらえる時間を作ることができたら嬉しいです。

 当たり前のように過ごしている毎日でも、これは当たり前でないと、今回のお話から気付くことができました。たった一つしかない自分の命だからこそ、今できることに精一杯取り組んでいきたいです。そして、生きている喜びと、感謝を忘れることなく、これからも充実した生活を送っていきたいです。

 

 

講演を聞いてから、
自分にもできることは何かを調べました


佐々木さん 英進進学コース2年 (石巻中出身)

 6月23日、この日行われた「命の大切さを学ぶ教室」で、私は改めて命の大切さ、そして命の重みを知ることができました。講師の八島さんは娘さんを亡くされていて、その事件当時のお話をして下さいました。話を聞いていくうちに被害者の家族の心に深い傷を与えた犯人の身勝手さと残酷さに憤りを感じました。

 何故そんなことをするのだろうか。例えどんな理由があったとしても、心の痛みを知っている人間が人の命を奪うという行為は決して行ってはいけない事だと思います。もし私の家族や親戚、知人、友人が被害者となったらと思うと、私は悲しさと悔しさで涙が止まらないと思います。普段近くにいる人が急にいなくなるというだけで、こんなにも胸が苦しくなるのかと思います。ましてや実際の被害者の家族の方々は毎日計り知れない程の苦しみと痛みを味わっていると思うと私自身もとても辛くなりました。

 帰宅後、私はすぐにパソコンを開き、あることを調べました。それは警察では被害者の方々へどのような支援をしているのか気になったからです。調べてみると様々なものがありました。相談・カウンセリング体制の整備や犯罪被害給付金制度、捜査過程における被害者の負担の軽減など他にも多くの取り組みが見られ、被害者の方々への配慮をなさっているのが分かりました。しかし、警察だけではなく一般市民の私にも何かできることはないだろうかと頭を悩ませていると、「活動を支援する」という文字が目に入りました。クリックしてみるとそこには(犯罪被害は決して他人事ではない。「明日はわが身」かもしれない犯罪被害、どうか支援活動を応援して欲しい。)と書かれてありました。支援活動一つに支援募金がありました。集められた支援金は社会の広報啓発活動の強化や人材育成にも充てられるそうです。
 これらを見て、私にも被害者の方々を少しでも支えることができるのではないかと思うととてもうれしくなりました。なので私も支援活動をしたいと思います。
 しかし、一方で多くの人は犯罪被害者支援活動のことを知らないのではないかと思いました。もっと多くの人に知ってもらう為には、まずは自分の家族や友人に伝えていくことが大事なのではないかと思います。そして全ての人が被害者のことを思うようになり、決して犯罪を起こしてはならないと感じるのではないでしょうか。
 最近、テレビのニュースでは芸能界での麻薬や女性への暴力などが報じられます。もっと身近な所では、我が校で起きた悲しい事故もありました。それは飲酒運転が原因で3人の尊い命が失われてしまったことです。どんな形にしろ、犯罪により命を奪われるという事は犯人、加害者には憎しみしか湧いてきません。残された家族はその憎しみが癒える事は決して無いと思います。

 ここまで被害者の方を思って話してきましたが、ふと思いました。加害者の家族はどのような思いでいるのでしょうか。
 最近のニュースでは芸能人の母親が息子の為に涙ながら謝罪会見している姿がありました。一般家庭であったとしても被害者の家族はもちろんの事、周りの人に謝らなければなりません。しかし、その時の親の心境を考えれば苦しく、悲しい気持ちになっているに違いありません。だから私達は決して被害者、加害者にならないようにしなくてはいけません。特にこれから運転免許を取得するのが大半だと思います。自分がいくら正しい運転をしていたとしても、歩行者、自転車の飛び出しにより、接触事故等にあえば、運転者の責任となってしまうでしょう。人の一生、命は尊い物です。だから私達は親から授かったこの命、あなたの命を大切にしなければならないと思います。

 

 

将来は命を粗末にするな、と
きちんと言える自分になりたいです

吉田くん 特別進学コース 2年 (南中山中出身)

 「命を粗末にするな。」
 以前、親に言われた言葉だ。喧嘩になって
 「死んだ方がマシだ。」
と吐き捨てたところ、こう言われたのだ。
 当時の私は、「俺ごときの命があったって何が変わるものか。」と思っていた。この言葉を私は別のところでも耳にしている。
 「命を粗末にするな。」
 私が中学1年生の時のことだ。クラスに食べ物の好き嫌いが非常に激しい人がいて給食中に一度も箸をつけずに全部残していた。それを見た担任の先生が、
 「命を粗末にするな。いいか、お前が残したハンバーグはな、お前のために死んだんだぞ。お前はその命さえも粗末にする気か。だったら飯なんか食うんじゃない。」
 私は全くもってその通りだと思った。なぜなら私たちは他の生き物の命を食として、いただいて生存しているからだ。私たち日本人が食事の前に「いただきます」食後に「ごちそうさま」と挨拶するのは、私たちが生きるための食事として命を奪われた生き物たちの命を尊び感謝するために生み出した言葉だ。昔から私たちの先祖は、食材も余すところなく活用し、生きる糧としてきた。
 ところが、現代ではどうだろうか。学校の給食を残し、ホテルなどではディナーから大量の残飯。コンビニでは「安全のため」にとためらうことなく弁当を廃棄する。わざわざ人間のために食材にされながら食べられることなく燃やされ灰となる。これこそ「命を粗末にする」ことではないだろうか。あまりにも簡単に食べ物が手に入り、自分の手を汚さず食べることによって、私たちは生きることへの感謝、他者と共に生きている自分、生きることの意味までも失ってしまったように思う。次々に新しい技術を開発し、ネットの普及や携帯端末の広がりによって自らの生活を便利に快適にしてきたが、それによって人間は堕落してしまった。人としての心を失い主張を失い生きる意味を失い、互いにの命さえ大切にできなくなっているのではないか。そうなってしまっては人間が人間でなくなり、社会が崩壊してしまう。どうすればいいのか。私は一つの結論を出した。
 それは、「なぜ自分が生きているのか」を考えるということだ。
 生まれたから、私たちが食べるものに困らなかったのはなぜか。なぜ1日3食しっかり食べてこられたのか。それは、私たちの先祖から脈々と続いた生活と私たちの食料となったたくさんの命のおかげだ。たくさんのその命によって、私たちは生かされているのだ。
 自然には食物連鎖という無数の命が複雑に結びついて成り立っている。人間もその中の一部でしかなくあくまで、自然に「生かされている」存在だということも忘れてはならない。つまり、私たち人間は、家族や友人や身の回りのたくさんの人々に支えられ、そして多くの生き物たちのお陰で命を生き永らえていることを実感し生きているのだ。

 科学技術の発達は今後さらに進歩していき人間の生活はさらに高度に便利になっていくだろう。しかし、機械に囲まれて便利な世の中になっても、生まれてから命尽きるまでの間にたくさんの命に支えられ、たくさん命をいただいて生きることは、根本的に変わらない。迂遠なようだが、人間がそのことを自覚し子孫に伝えていくことが社会の存続にもつながるのだと思う。だからこそ私たちはもちろん、他者の命も尊重し、食べ物を残さず食べるという当たり前のことがどれだけ大事なことをかみしめて生きていかなければならない。
 自分が大人になった時、 「命を粗末にするな」としっかり言える自分になりたいと真摯に思った。

 



 

お話の中の「命は個性」という言葉に
心を打たれました


三塚さん 英進進学コース1年(東豊中出身)

 私は命の大切さを学ぶ教室を受講して、命の尊さを改めて感じることが出来ました。
 この講演を聞いて、一つ、心を打たれた言葉がありました。それは、「命は個性」という言葉です。個性とは、一人一人が持っている特徴で、それは、他の人と同じになることはないと思います。人間は人それぞれ良い所、悪い所がありますが、その一つ一つが個性なのです。ですから、命を大切にするということは個性を大切にするということに繋がります。
 しかし、講演で聞いた事件は、交際を求められ、断った結果、講師の娘さんの命が奪われたというものでした。その話を聞いた時私は、命はこんなにも簡単に失われてしまうのかと思うとともに、命を簡単に失ってはいけないと思いました。このことを講演で学び、人と喧嘩をしたり、仲良くしたり、なんとなく生活している毎日ですがそれは、生きているという素晴らしい証拠なのだと思いました。人の命はいつ終わるか分かりません。だからこそ一日一日を大切にして生活しなければいけないのだと強く思いました。

 私は、人に対して「死ぬ。」と言う人や、簡単に「死にたい。」と言う人が嫌いです。そんなことを言う人に、私はもう一度分かってほしい事があります。それは、自分が生まれてこれたという奇跡です。生きている事があたりまえではないのです。一人の女性が自分の命をかけてでも必死に赤ちゃんを産む。命をかけて、もう一つの新しい命を生む。このことがどれだけ大変で、どれだけ素晴らしい事なのか、私は一人でも多くの人に分かってもらいたいです。中には、病気で生きたくても命を失ってしまう人や、身体が思うように動かない人もいます。だからこそ私は、母が産んでくれたという誇りを胸に、懸命に生きたいのです。

 命について考えていたら、ネイティブ・アメリカンの教えの言葉を思い出しました。それは、「あなたが産まれたとき、周りの人は笑って、あなたは泣いていたでしょう。だから、あなたが死ぬときは、あなたが笑って、周りの人が泣くような、そんな人生を送りなさい。」という言葉です。この言葉の中の「あなたが笑って、周りの人が泣くような、そんな人生を送りなさい」という部分から私は、最期を笑って遂げられるのは、自分の人生に達成感を得られたからではないかと思います。だから私も達成感を得て、後悔をしない人生を送りたいです。そのためには、目の前の一つ一つの物事や立ちはだかる壁、困難にも逃げずに立ち向かい、満足ができるような生活を送ることが大切だと思います。人生は一度きりであり、「今」は今しか味わえません。ですから、これからの生活では人への気配りや心配りを大切にし、自分だけでなく周りの人も充実した毎日を送れるようにしたいです。

 また、この講座を受けて、命の素晴らしさや生きていることの素晴らしさを改めて実感することができました。

 

 

東日本大震災の経験で、 たくさんの人に支えられて
生きていることを実感しました

遠藤さん 外国語コース1年(宮教大附属中出身)

 今回の「命の大切さを学ぶ教室」を受講し私は、「命の価値」について、改めて考える良いきっかけとなりました。
 「影響力が大きい人と私の娘では、命の価値までも違うのか」という言葉が、受講中、一番私の心を大きく動かしました。今回、この教室で講演して下さったのは、娘さんを痛ましい事件で亡くされた、遺族の方でした。数時間前までは元気に「いってきます」と、出かけていったはずなのに、娘さんが「ただいま」と帰ってくることは、二度となかったのです。将来への夢や希望を一瞬のうちに奪われた娘さんの無念、そして、大切な存在を失ったご家族の怒りや悲しみは、何も失ったことのない私にとって、計り知れないものであると感じました。事件から何年も月日が経っても、昨日のことのように感じるそんな辛い出来事を、犯罪を減らし、命の大切さを伝えるために話してくださった遺族の方は、とても強いと思いました。講師の先生の娘さんの事件は、地方のニュースや新聞に取り上げられたそうです。でもそれは、一部の人にしか伝わりません。ですが、影響力の大きい人の悲報だとしたら、たちまち全国、いや世界中で大きく取り上げられるのです。でも、二人の違いは、影響力の大きさという点だけで、どちらの命が大切であり、価値が大きいのかなどと比べることはできないと思いました。

 私は、小学校4年生のとき、東日本大震災を経験しました。今まで感じたことのないほどの波のような揺れに並ならぬ不安や恐怖に襲われていました。地震発生当時、私は小学校にいたので、父が迎えに来てくれたとき、とても安心し、脱力したのを鮮明に覚えています。自宅に帰ると何が起きたのか分からないほど、物という物が部屋中に散乱していて、何から片づけるべきかすら分からないような状態でした。時間が経つにつれて、被害の状況が明らかになり、沿岸部が津波で町全体が流されたと知りました。そのとき改めて、自分が助かったということ、家族も自宅も無事だったことがどれほど幸運であったかを実感しました。また、震災によって、電気やガス水道といったライフラインが途絶え、食料も少なく、生活が困難になりました。そんなとき、大切だと思ったのは人と人とのコミュニケーションです。普段から、隣人との交流があったので、様々な食料をいただいたり、一緒に車や自転車を利用して、水などの必要な物を買いに行ったりと互いに協力し合えたことで、震災時の生活も乗り切ることができたと思います。隣人だけではなく、近所で避難所になっていた小学校で炊き出しがあり、集まった人々で、おにぎりや豚汁などを作り、配膳したりしました。自分一人では何もできず、たくさんの人々の支えがあって、自分は生きている事ができているのだと実感しました。

 今回の「命の大切さを学ぶ教室」と「東日本大震災」を通して、どの命もかけがえのない大切なものであり、比較したり、価値を決めたりすることはできないということ、普段何気なく生活をしているそんな毎日の生活が当たり前ではなく、どれほど幸せなことなのかということを学びました。この学びを無駄にしないよう、一日一日を一生懸命に生き、他者の生命を尊重できるような思いやりの心を持ちながら生活していきたいです。

 

 

命は一つであり、
生きることも一回しかないのです

倉辻さん 外国語コース1年(北仙台中出身)

 私は命の大切さを学ぶ教室をきっかけに、命という言葉を改めて考えることにしました。
 命を考えさせられたのは、祖母が亡くなった日です。私の祖母は認知症であったため、ひどく暴れることがありました。しかしそれは、病気のためだから仕方がないと、当時小学生だった私でも分かっていました。優しさのあるときとひどく暴れるときでは全然違うのでびっくりしていました。ただそれでも笑顔の祖母は輝いて見えました。
 そんな暮らしがずっと続くと思っていたとき、祖母が倒れたと朝デイサービスの方から一本の電話がありました。その電話を聞いて家族全員飛び起きました。すぐに病院に行った私たち家族はその祖母の光景を見て言葉を失いました。祖母の体にはたくさんの装置や機械が取り付けられていました。母は泣きくずれ、私も自然と涙が出ていました。まだ祖母は亡くなってはいない、まだ一緒に生きていけるチャンスはあると思っていました。家族全員でおばあちゃんに声を精一杯かけました。しかしその思いは届かず祖母は亡くなりました。私は初めて命の重さを感じました。今も命日になると祖母を思い出します。命を取り戻すことができません。だからこそ、命は一番大事な部分であると私は思います。

 命の大切さを学ぶ教室では、「命は個性。」という言葉がすごく心に響きました。毎日ニュースを見ていると、事件やテロ、災害などが嫌なほどあります。毎日誰かがこの日本、いや、世界で亡くなっているんだと思うと、同じ地球市民として心が痛いです。それでも今生きている人達が、これからを考えなければならないと思います。ただ何から考えていいのか、とても難しい問題です。しかし私には、考えがあります。小中校生の主な死は自殺であり、原因はいじめやストレスなどからです。その対策として私はいじめられている子に寄りそうこと、いじめを見る傍観者にならないことが大事だと思います。一番は生きている人が十人十色を認め、優しさを心がけることが大切です。このような行動が、人々の命を救うことができるのではないでしょうか。命は一つであり、生きることも一回しかありません。そんな大切な時間を終わらせてしまったりするのはもったいないと思います。命が失われることは悲しくとても辛い現実です。私も祖母ともっと話したかった、最後ぐらい話したかったと後悔があります。ただ空から見守ってくれているとずっと信じているので、私はこれからも自分らしい生活・人生を送りたいです。自分にとって苦痛や辛いときはありますが、そんな時は一人で抱えこまずいろんな人とのコミュニケーションを通じて答えやアドバイスを出したいと思います。自分もいじめられていた子に陰ながらも声をかけ、支えたことでいじめを解決できたことがあります。自分もいじめられるのではないかという不安もありましたが、小さい頃からの友達であったためそんな恐怖心を捨て、いじめをなくすように努力した結果、友達をいじめる人も少なくなり、友達の顔も少しだけ明るくなったと気づいたときは、自分も嬉しかったです。友達はずっと死にたいなど話していましたが、今高校生活を楽しく送っています。こんな私でもいじめを解決するのに少しでも役に立つことができる、命を救うことができると感じた経験でした。

 私はこれからどんな道を歩くのかは分かりませんが、この「命の大切さを学ぶ教室」で学んだことや感じたことを忘れず生活していきます。マナーやルールを守り、立派な大人になることを命に誓おうと思います。

 
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