学園創立100周年に向けて記念企画】 学園創立者 加藤利吉先生物語
■3年後にやってくる
 学園創立100周年

 
 
宮城野校舎。正門入り口から栄光の校舎に続く階段を上り、入り口へと曲がろうとすると、その手前で私たちは一体のブロンズの胸像に出合います。顔には時代を感じさせる丸い眼鏡。優しげな雰囲気をたたえながらも、しかしキリリとした表情で前方の空間を見つめています。
 多賀城校舎。ライオンズホールの中庭にはひとつの塔がそびえています。その塔の一面 には、初老と思われる男性の姿が浮かび上がっています。老年に至る年代らしいとはいえ、その表情からは年を重ねても衰えることのない精悍さが見て取れます。
 そして、ところは飛んで、福島県会津若松市。白虎隊で有名な飯盛山。鶴ヶ城や会津の町、磐梯山を望む一角にひとつの碑が建ちます。碑の表面 には、
学校法人 仙台育英学園 創立者 加藤利吉翁 1882〜1962  
 そう、これらすべては私たちの学園の創立者である我らがライオン先生、加藤利吉先生の像です。3年後2005年は加藤利吉先生が学園を創設して百周年を迎える年。その祝福すべき年に向かって私たちの日々の歩みを進める一方で、少しずつ加藤利吉先生の足跡を辿ってみることにしましょう。今回は、その第1回です。



■戊辰戦争の傷跡が
 会津の人々の心に


 「明治15年(1882年)12月3日、加藤利吉は父加藤利喜次郎、母こまの次男として会津若松市(当時は若松市)に生まれました。」
 
加藤利吉先生の生涯を描いた本『ほえろ!ライオン先生 学園創立者 加藤利吉先生物語』(奥中惇夫 著)のストーリーは、この一文から始まっています。
 明治15年。戊辰(ぼしん)戦争の傷跡が、会津に生きる人々の心にまるで昨日のことのように生々しく残っていた時代です。『ほえろ!ライオン先生』には、この時代に生を受けた少年利吉先生の姿が次のように描かれています。

 「俺たちは会津軍だ。卑怯な官軍をたたきのめせ!」
 「俺だって会津軍だ。白虎隊だ」
 ……
 「お前だって白虎隊やりたいだろ。会津の者は、誰も官軍なんかになりたくないんだ。あんな卑怯者になりたくないんだ」
 ……  
「暴力でいじめる奴は嫌いだ。俺はあいつらとの戦争ごっこはやめるから、お前もやめろ。戦争なんか、良くないよ。俺はな、卑怯者なんかいない、争いのない世界を作りたいな」



■幼い頃から学問に
 深く親しんで


 利吉先生の家は米屋を営んでいました。次男として生まれた利吉先生は、幼い頃から学問に深く親しんでいたようです。
 利吉は本を読むのが好きで、幼いころから四書五経(ししょごきょう・中国の昔の書物、大学・中庸・論語・孟子の4つの書物と、易経・書経・詩経・礼紀・春秋の五経)に親しんでいました。普通 漢文は中学へ入ってから学ぶのですから、小学校の3年ぐらいで漢文を読むなんて大変なことです。

 「子曰(しのたまわ)く、苟(いやしく)も仁(じん)を志せば、悪(にく)むこと無きなり」(先生がおっしゃった、仮にも人間愛を心に持つことを志したら、その人は悪事を行う恐れは無い、と)


■もっと自分に向いた
 仕事があるはずだ


 
加藤利吉先生は、幼い頃から勉強に励みました。一方、家業である米屋の仕事にも精を出しました。ですが、利吉先生は次男坊。家を継ぐのは長男、という時代です。16歳になったころ、利吉先生の頭の中には一つの疑問がわいてきました。
 「俺はこんなことをして一生を終わらせてよいのだろうか…。いや、そんなことはない。何か俺に合った仕事がある筈だ。もっと俺に向いた仕事が…。うんと勉強して何か俺に向いた仕事を探して頑張らなければ、生まれてきた甲斐がない」


■そうだ、東京へ
 行って勉強しよう


 「父さん、俺、東京へ行く」
 「え!?」
と利喜次郎はびっくりしました。
 「東京へ行って、もっと勉強をしたい」
 「東京ってお前、江戸のころと違って薩長が勢いを持っているんだぞ。そんなところで…」
 「だから勉強するんだ。政治家や軍人は薩長が独占しているか知れないけれど、学問は一人一人の頭の問題だから、薩長の派閥で独占というわけにはいかないだろう。才能があれば世の中に認められる。俺、もっと勉強して、自分の才能を力一杯試してみたいんだ」  「でもなぁ」
 「会津にいたって、やれることは限られている。俺は会津が好きだ、大好きだ。だから学問で身を立てて薩長の奴らを見返してやりたい」  
  ………
 
こうして加藤利吉先生は16歳にして、単身、東京へと旅立ちます。学資として、炭百俵を持って…。
 
 
 学園創立100周年に向けて記念企画】 学園創立者 加藤利吉先生物語
「東京へ行って、もっと勉強をしたい」
 「会津にいたって、やれることは限られている。俺は会津が好きだ。だから学問で身を立てて薩長の奴らを見返してやりたい…」



■英語を身につけ、
 世界に出てみたい


 こうして東京へと旅だった青年・加藤利吉先生は、生活と学問の資金のためと受け取った炭百俵を売りながら、学問への道を歩み始めます。
 利吉先生が上京して入学したのは神田猿楽町の東京学院。ここで国学・漢学を学びます。利吉先生が幼い頃から四書五経に親しんでいたことについては前号でお話ししたとおり。東京学院では抜群の成績を残したようです。
 明治34年3月に、利吉先生は東京学院を卒業しています。しかし、東京で3年間勉強するうちに、青年・加藤利吉先生の夢はさらに大きく広がりました。
 「狭い日本にいてはだめだ。世界で一番広く使われている言葉の英語を身につけて、窮屈な日本を飛び出し、イギリスやアメリカに渡って世界のいろいろなことを学びたい」
 そこで、神田正則英語学校に入学して英語の本格的な勉強を始めます。まさに現在の学園の精神、「国際理解」「グローバリゼーション」は、このとき利吉先生の胸に芽生えていたようです。正則英語学校は、明治37年(1904年)に卒業しています。


■学びながら子供達に
 英語を教えるように


 神田正則英語学校でも利吉先生の才能は発揮され、英語の上達ぶりは群を抜いていたようです。
 しかし、いっぽうでは炭百俵を売って得た資金は底をついてきました。そこで、利吉先生は住み込みで米屋で働きながら学校に通 うようになりました。さらに子供達に英語を教えるようにも。教える子供の数はしだいに増えて、やがては塾のようなものへと成長していきました。



■ヘンリーと出会い、
 横浜で塾を…


 利吉先生がアメリカ人ヘンリーと出会ったのはしばらく後のこと。子供達に本格的な英語を教えたいと考え、利吉先生は外国人の教師を募集したのです。そこに応募してきたのがヘンリーでした。
 利吉先生はヘンリーに交換条件を出しました。ヘンリーが利吉先生と塾の子供達にネイティブの英語を教える。そのかわり利吉先生がヘンリーに日本語や漢詩を教えるというもの。ヘンリーは利吉先生のこの申し出を快諾。2人3脚の日々が始まったのでした。
 利吉先生はヘンリーとともに横浜にあるヘンリーの家で塾を開きました。利吉先生は生徒達に国語・漢文・数学を教え、ヘンリーは英語を教えました。もちろん利吉先生とヘンリーの2人も、ときに先生になり、生徒になって教え合いながら。


■失意の利吉先生に
 届いた召集令状


 天気の良い日には、カレン(ヘンリーの娘)とともに横浜港の埠頭を散歩することもありました。そんなとき、利吉の心は何となくときめくのでした。
 荷揚げする外国船を指さして、
 「あの船に乗って外国へ行きたい。世界の国々を見たい。世界中のいろいろなことを知りたい」…

 『ほえろ!ライオン先生』(奥中惇夫著)には、利吉先生の横浜での楽しく充実した日々の様子が、このように描かれています。
 しかし幸福な日々は長くは続きません。ヘンリーは父親の病気により、一家でアメリカに引き揚げることに。そして利吉先生には召集令状が届くことになるのです。時は明治37年(1904年)、日露戦争が始まった年のことです。

 
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■利吉先生の運命を
 変えた召集令状


 明治37年(1904年)、青年・加藤利吉先生に届いた召集令状…。この一枚の令状によって利吉先生の横浜での「幸福な勉学の日々」は突如終止符をうたれ、あらたな時代の荒波の中へと投げ込まれていくことになります。19世紀最後の年に勃発した義和団事件(1900年)、そしてその4年後にはじまった日露戦争。中国を最初の舞台として、世界はその後、人類がかつて体験したことのない悲惨な二つの世界大戦へと突入していくのです。


■殺し合わなければ
 ならない戦争とは…


 利吉先生は補充兵として約6カ月間厳しい訓練を受けたのち、その年十月に中国の遼陽へと到着します。そこで見た光景。それは戦争の悲惨さそのものでした。『ほえろ!ライオン先生』(奥中惇夫著)には、そのときの利吉先生の思いが、このように描かれています。
 「利吉は歩き続けながら考えていました。戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、そして今度の日露戦争。お互い殺し合わなければならない戦争とは、一体何だろう、と。自分は争いのない世界を作りたいと思って、そのために勉強してきたのに、いま日本の国家の命令で、好むと好まざるとにかかわらず戦いの場に駆り出されている…」


■戻れる望みもない
 危険な斥候


 隊の中での利吉先生の日々は、戦場の情景に負けぬほど悲惨なものでした。時代は20世紀に入ったとはいえ、当時はまだ明治維新時の「しこり」が癒(い)えることなく残っていました。隊の上官たちの多くはかつての官軍、薩長の出身者たち。利吉先生が会津出身ときけば、放ってはおきません。執拗(しつよう)ないじめをしかけてきます。結果 、利吉先生は長州出身の上官にさからった復讐として、生きて戻れる望みもない危険な場所への斥候(せっこう)を任ぜられたのです。


■撃たれ、倒れ、
 そして仙台の病院へ

 当然ながら、斥候の場所で利吉先生を待っていたのは、容赦ない敵の銃の轟(とどろ)き。身を伏せる利吉先生。一発の敵の銃弾が利吉先生の頭部を貫通 し、利吉先生は倒れました。
 中国・奉天の雪の中で銃弾に頭部を貫かれた利吉先生。ですが、友軍の兵士が利吉先生を抱きかかえ、後方へと運んでくれたのです。これが命拾いになりました。利吉先生は野戦病院で手当を受けた後、仙台の衛戍病院(陸軍病院)に送られて、治療を受けることになります。


■加藤さよさんとの
 運命の出会いが…


 負傷した利吉先生は、ベッドの中で生死の境をさまよいました。利吉先生の命はここまで…。しかし、ここで大きな運命の転換、運命の出会いがあります。利吉先生と生涯連れ添うことになる「加藤さよさん」との出会いです。さよさんは負傷兵を看病するために陸軍病院へ。そこで利吉先生と出会うのです。  さよさんは重傷患者たちを献身的に世話しました。特に瞬きもしない目で天井を見続ける利吉先生に…。
 「あの人の目は死んでいない。きっと生き返る。いまに話し始める。笑いかけてくれる」
 そう信じてさよさんは利吉先生に一生懸命尽くしたのでした。そして、その後、「奇跡」がおこるのです。


 
   
学園創立100周年に向けて記念企画】 学園創立者 加藤利吉先生物語
加藤利吉先生の胸像
(宮城野校舎)
 
 「あの人の目は死んでいない。きっと生き返る…」
 さよさんの看病のかいあって、中国での戦いで受けた青年・加藤利吉先生の傷は医者が驚くほどの早さで回復へと向かいました。
 やがて病院内を歩けるまでになった利吉先生は、病院の庭にある小さな丘の上で、自身の将来への夢を、さよさんに語り始めます…。



■グローバルな視野を持つ
 若者を育てたい


「ここに住もうかな」
「仙台に?」
「やりたいことがあるんです」
「やりたいこと?」
「教育です」
「教育?」
「そうです。せっかく助けてもらった命を教育に捧げたいと思います。僕は戦場で考えていました。どうして人は戦うのか、どうして人間同士殺し合わなければならないのか…。戦争のない世界を作らなければならない、そのためには一民族の繁栄だけを願うのではなく、もっとグローバルな目を持って、世界を見て活躍できる人材をたくさん育てるべきだと考えたのです。今の日本は世界に目を向けていません。もっと世界を見つめた教育が必要です。日本だけでなく、世界を理解し、世界に通 用する若者を育てたいのです」
(奥中惇夫著・『ほえろ!ライオン先生』より)
 利吉先生とさよさんは、仙台で結婚式を挙げることになります。


■学園の歴史の原点、
 『育英塾』が誕生!!


 教育への道を志した青年・利吉先生は、その第一歩として、寺子屋式の私塾を開くことを決意します。仙台の地に地盤も実績もない若い利吉先生にとっては資金集めの段階から苦労の連続でした。ですが、さよさんやさよさんの実家の助けもあり、二人が新居として構えた仙台市東四番丁五三番地に『育英塾』の看板を掲げることができました。明治38年(1905年)10月1日のことでした。
 利吉先生はこのとき弱冠22歳。ここから仙台育英学園の歴史はスタートするのです。
 利吉先生が教育者としての第一歩を踏み出した育英塾は、今でいう予備校にあたるものでした。宮城県全域から現在の大学にあたる旧制高等学校をめざす若者を集めて英語と数学を教えることからはじめ、翌年には国語、漢文のほか地理や歴史も加えて教えるようになりました。



■寮での生活を通して
 「人間教育」を実践


 利吉先生は宮城県下から集まる塾生のために寮を作りました。寮には学ぶところと住むところが隣接しているというメリットに加えて、教育上の利点もあります。それは日々の生活も共にすることで、勉学と生活が一体となった「人間教育」が行えるということです。塾生の生活面 では、さよさんが食事の世話などで大忙しになりました。
 『育英塾』の誕生によって、教育者をめざすという利吉先生の夢の第一歩は実現されました。ですが、塾の運営面 においてはスタート時から順調ではなかったようです。開塾時の借金の返済や塾生のための寮の経費などで、育英塾の経営はつねに“火の車”状態にあったようです。
 利吉先生は食費を少しでも助けようと、塾生たちと一緒に畑に出て野菜作りに励みます。塾生たちも汗まみれになって開墾作業に取り組みます。



■気合いを入れる声は
 まるでライオン…


 「ウォー、ウォー」
 ほえるような声で気合いを入れながら、利吉は一生懸命にくわを振るいます。塾生たちの間に、
 「まるでライオンだ」  
 「ライオン先生だ」
 という声が聞こえて来ます。ライオン先生というあだ名はこのときについたのでしょうか…。
(『ほえろ!ライオン先生』より)
 自分たちの理想を実現するためにみんなで力を合わせて汗を流し、働く。現在の仙台育英学園で行われている「体験学習」のルーツはここに源を発しているのです。
 育英塾は評判も良く、少しずつ軌道に乗っていきます。
 
学園創立100周年に向けて記念企画】 学園創立者 加藤利吉先生物語
▲ 仙台育英中学校の玄関に立つ加藤利吉先生
 
■学校を作りたいんだ
 本物の学校を…


 明治38年(1905年)10月1日、仙台市東四番丁に寺子屋式の私塾『育英塾』の看板を掲げた加藤利吉先生。先生の教育に賭ける情熱はとどまるところを知りません。勉学を志す塾生を集め、彼らの食事の面 倒も見て、ときには食べさせる米を荷車で遠くから運び…。その苦労と頑張りには周囲もあきれるほどでした。
 しかし、利吉先生は、その苦労をいといません。先生には、未来に向けての確たるビジョンがあったからです。
「そんなにしてまで勉強教えることねえべさ」  
「学校を作りたいんだよ」  
「学校?」  
「うん。本物の学校だ」  
「本気かね」  
「塾ではどうしても受験のための勉強になりがちだ。もっと広い視野を持って世界に羽ばたく人物を育てるために、本格的な学校を作りたいのだ。それが私の理想なのだ…」

(奥中惇夫著・『ほえろ!ライオン先生』より)
 利吉先生の生活は質素そのものでした。質素倹約を旨としながら学校作りの夢に賭けたのです。


■母と妻の言葉に
 外国への夢を断念


 しかし、そんな利吉先生にも、一時、迷いの時がありました。「外国へ行きたい、世界を見て自ら勉強したい」というもう一つの夢を忘れることができなかったのです。外国への夢をうち明ける利吉先生。しかし、妻のさよさんは賛成しません。
「若い人を育てるために、将来の人材を作るために、あなたは塾を始めたんじゃなかったの。教育の仕事はあきらめるのですか」
「あきらめたわけではない。教育者として立派に成長するために、外国へ行って勉強したいんだ。世界の現実の空気を吸ってたくさんのことを吸収していきたいんだ」

(『ほえろ!ライオン先生』より)
 利吉先生のこの思いを止めたのは、父・利喜次郎の死後、弟の利喜松と栄吉と共に会津から呼び寄せていた利吉先生の母・こまさんでした。
「この年になってお前がいなくなると、母さんは寂しいよ」
 この言葉に、利吉先生は外国への夢を断念せざるをえませんでした。


■学校設立に向けて
 全ての力を注ぎ込み…


 以後、利吉先生は再び学校設立に全力を注ぎます。文部省にまでも足を運び、大正2年(1913年)、仙台市東七番丁に仙台育英学校が開校。そしてこの設立と同時に、同じ敷地内に東北高等予備講習会を併設。この東北高等予備講習会は翌大正三年に各種学校令に基づく学校として認可され、東北高等予備校に。大正8年には「財団法人東北高等予備校」として文部大臣の認可を受け、さらに同財団常任理事となった加藤利吉先生が校長として正式認可されることになります。



■1922年、念願の
 仙台育英中学校が誕生


 おめでたいことばかりではありません。このころ、最愛の母・こまさんが癌で倒れます。しかし、その辛さを乗り越え、仙台育英中学校の設立に向けて奔走し、大正11年(1922年)4月17日、仙台育英中学校の第一回入学式が挙行され、入学生53名を迎え入れることになります。育英塾を開いて18年目にして、近代学校へと脱皮、生長していくことになるのです。


※この『加藤利吉先生物語』は、おもに奥中惇夫著『ほえろ!ライオン先生』から再構成したものです。
 
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■「至誠」「質実剛健」
 「自治進取」…


 大正11年(1922年)、仙台育英中学校開校という“学校設立の夢”を実現した加藤利吉先生。育英塾を仙台の地に開いてから学校設立までの苦労は、これまでに述べてきたように並大抵のものではありませんでした。
 幾多の困難を克服してきた道のりの中で、加藤利吉先生は三つの言葉からなる建学の精神を掲げました。「至誠」「質実剛健」「自治進取」…現在も仙台育英学園の中に一貫して流れる「学園と私たちの魂のよりどころ」です。
 利吉はこの三大精神を額に入れて、各教室の正面に掲げました。そして授業の中でその説明をします。例えば、
 「至誠とは、文字通り誠を尽くすことである。すなわち真心をこめて人に接し、事に当たることです。『至誠天に通 ず』と言うように、真心を貫けば、必ず天即ち神様も感動して助けてくれるということです」


■ここに根ざしし育英の
 我が学舎に栄光あれ


 大正11年、第一回入学生53名でスタートした仙台育英中学校は、昭和2年(1927年)に教室四棟を増築。それにともなって昭和三年には生徒定員を五百人に増加するにまで至りました。
 そして昭和五年(1930年)には校歌が誕生します。作詞は加藤利吉先生、作曲は服部正氏。
 南冥遥か天翔る
 鴻鵠棲みし青葉城
  ……

 誕生から70余年。20世紀から21世紀へと時代の大きな節目を経た今も、変わることなく歌い継がれている校歌です。

■昭和14年、生徒
 定員は750名に


 仙台育英の校歌が高らかに歌われ始めた一方で、日本は「戦争」という暗い局面 へとなだれ込んでいきます。昭和6年(1931年)には、満州事変。昭和12年(1937年)には中国の廬溝橋(ろこうきょう)事件をきっかけにして、日本と中国の間で戦争がはじまります。いわゆる日中戦争です。加藤利吉先生の周辺も、平和なままではいられません。利吉先生の弟、利喜松さんは陸軍の軍人として、栄吉さんは海軍の軍人として戦地におもむきます。
 しかし、そのような局面の中でも、加藤利吉先生の理想の学校づくりへの努力は続きます。
 昭和14年(1939年)、外記丁に当時としては全く斬新な校舎が誕生します。それに伴い、仙台育英中学校の生徒の定員は750名に…。
 戦時下とあって、建築物資の統制、建築資材費の高騰と工事の進行は困難を極めましたが、利吉の不撓不屈(ふとうふくつ)の精神と、至誠天に通 ず、の信念で乗り切り、さらに同窓会、父兄会、その他各方面の協力によって完成することができたのです。

■校長職を退き
 理事長に…


 明治38年(1905年)私塾『育英塾』の開塾以来、加藤利吉先生は持てるパワーの全てを傾けて、理想の学校づくりに邁進(まいしん)してきました。しかし、昭和16年(1941年)10月、利吉先生はそれまで続けてきた校長の職から退き、理事長に…。このいきさつは、『ほえろ!ライオン先生』において、このように描かれています。
 加藤利吉は育英塾開塾以来私学による生徒の教育に心魂を傾けてきました。その成果 は顕著で利吉の理想は次々に実現してきました。学校の敷地取得、校舎の建設、設備の充実には、まさに東奔西走そのものであり、心身の過労をも意に介せず使命の達成に全力を傾倒してきたのです。そして「ここ仙台の地に育英あり」の世評を得るような一大教育の殿堂が出現したのです。利吉はこれを機に校長職を退き、理事長職に専念することにしました。
 昭和16年。この年は、太平洋戦争が始まった年でもあります。日本のみならず世界中を不幸と混乱に陥れた大戦。加藤利吉先生が築き上げてきた仙台育英もまた、この戦争の大波にのみ込まれていくことになるのです。

※この『加藤利吉先生物語』は、おもに奥中惇夫著『ほえろ! ライオン先生』から再構成したものです。(太字は本文からの引用)。
▲外記丁の校舎(昭和14年)



▲加藤利吉先生の訓示風景(昭和15年)
 
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■中学校の発展、しかし
 時代は暗い戦争へ…


 明治38年(1905年)私塾『育英塾』、そして大正11年(1922年)には利吉先生の夢がかなって『仙台育英中学校』が外記丁の地に誕生。昭和14年(1939年)、ついに極めて斬新的な新校舎ができあがりました。 
 「ここ仙台の地に育英あり」の世評を得るような教育の一大殿堂が出現したのです。利吉はこれを機に校長職を退き、理事長職に専念することにしました。昭和16年(1941年)10月、日本を取り巻く太平洋の状況が緊迫の度を増しているときでした。
 そして昭和16年(1941年)12月8日、日本軍が真珠湾を奇襲攻撃。太平洋戦争が勃発します。戦火の拡大とともに、国内の戦時体制も強化され、中学生も勤労動員されて軍需工場で働くようになり、仙台育英中学校の生徒たちも、武器の製造に携わるようになります。

■利吉先生の夢の学園が
 戦争の炎の中に


 戦争は年を追うごとにますます激しさを増します。昭和19年(1944年)の暮れには米軍の爆撃機B29が日本各地を空襲し始めます。昭和20年(1945年)3月9日の大空襲では東京が焼き尽くされました。
 そして7月10日未明、運命の時がやってきましたー。
 仙台市に空襲警報のサイレンが鳴り渡りました。B29 123機の大編隊が飛来、10,961発(912トン)の焼夷弾を投下しました。火炎が立ち上ると同時に、利吉は校舎へと向かって走りました。校舎はすでに紅蓮(ぐれん)の炎に包まれていました。利吉は
「ああ、消さなくちゃ。消さなくちゃ」
 防火用水のバケツをつかむと夢中で水を掛けます。…
「まずいぞ、燃えちゃ、燃えちゃ」
 まるで狂ったように、駆け回り、バケツを振り回します。
 校舎はさらに勢いを得て激しく燃えさかります。引き戻された利吉は絶望的になってへたへたと座り込みました。
 燃えさかる真っ赤な炎ー。利吉には地獄の業火のように見えました。その業火のためについに屋根が、末期の声を上げて焼け落ちました。


■くたばってたまるか、
 やり直すんだ!


 焼け落ちた校舎を前にして、呆然と立ちつくす加藤利吉先生。校舎跡のくすぶる炎を映す目には涙が浮かんでいたに違いありません。しかし、利吉先生の胸のうちには、もしかすると、故郷・会津若松で見た赤い柿の実、会津見知らずの実が浮かんでいたのかもしれません。利吉先生は、こうつぶやきます。
「ここでくたばってたまるか」
絞り出すような声でした。
「もう一度…やり直そう。やり直すんだッ」
利吉が決然と言い放ちました。
爛々と光る目。毅然とした姿勢。
その姿は不死鳥そのもの、ライオンの決意でした。

 この時から、加藤利吉先生は、学園の再建に向けて、驚くべき「ライオンの力」を発揮することになるのです。

*この『加藤利吉先生物語』は、おもに奥中惇夫著『ほえろ! ライオン先生』から再構成したものです。太字は同書からの引用です。
 
学園創立100周年に向けて記念企画】 学園創立者 加藤利吉先生物語
 
   
 昭和二十年(一九四五年)七月十日未明、加藤利吉先生が築き上げてきた理想の学園は、B29の大編隊が投下した焼夷弾により一瞬のうちに焼き尽くされてしまいます。
 しかし、その惨状を目の前にしながらも、利吉先生はへこたれません。
「ここでくたばってたまるか。もう一度、やり直そう」


■校舎用地を探しながら
 青空教室で学習


 再び、利吉先生の奮闘の日々が始まりました。授業再開のための教室を求めて、利吉先生は東奔西走します。幸い、仙台市立上杉山通国民学校が貸してくれることに。しかし、戦争が終わって疎開していた児童が戻ってくれば、国民学校の校舎を借りていることはできません。上杉山通国民学校の次に借りた長町国民学校も使えなくなると、ついには宮城野薬師堂や台原練兵場で青空教室での学習を行うことになります。晴れた日には照りつける太陽のもとで、雨の日には濡れた地面の上で直立しながら…。
 しかし、悪条件の中でも、授業が散漫になるようなことはありません。悪条件だからこそ教える側、教わる側それぞれに熱い思いと、学ぶことへの熱意がみなぎっていたのです。
 青空学習を続けながらも新しい校舎のための用地探しは続けられました。そして、戦争が終わった年の翌年、昭和二十一年(一九四六年)四月、宮城野原にあった元陸軍省用地を獲得することができました。

■これで心配なく教育に
 専念することができる


 新しい校舎のための用地は獲得できたものの、資金があるわけではありません。利吉先生の「銀行詣で」が再び始まりました。
 その一方で、軍の建物の廃材を利用したり、会津に戻って森林の木を切り出したり、建築経費を節約する努力も。宮城野原の学校敷地では運んできた材木をもとに、生徒や保護者たちの協力を得て校舎の建設が進められました。
 こうして昭和二十四年(一九四九年)三月二十一日、宮城野原に新校舎が誕生しました。
「これで、雨の日に濡れずにすむ…。心配なく教育に専念することができる」
 加藤利吉先生は、満足げにつぶやきました。
 新しい校舎が出来あがってくるのと平行して、学校の組織・体制も戦後の学制改革により変化をとげます。昭和二十六年(一九五一年)三月、学校教育法に基づいた「学校法人仙台育英学園」が誕生しました。

■バトンは昭 先生、
 そして 雄彦先生に…


 太平洋戦争勃発の直前、昭和十六年に校長職を退き、理事長職に就いていた利吉先生は、昭和三十二年(一九五七年)、孫にあたる加藤昭先生(現学園理事長)を仙台に呼び、昭先生は仙台育英学園の専務理事として学校の経営に当たられることになります。さらに翌年昭和三十三年(一九五八年)には仙台育英高等学校および仙台育英商業高等学校校長に就任されます。このとき昭先生は、まだ二十九歳の若さでした。
 そして昭先生が校長に就任されたその年、長男の加藤雄彦先生が誕生します。
 昭和三十七年(一九六二年)三月、利吉は学園の仕事で法務局へ足を運んだのですが、その帰途、ちょっと腹に痛みを覚え、東北大学付属病院へ診てもらいに行って、そのまま入院となりました。
 その二日後には危篤状態に陥り、三月二十四日、加藤利吉はその波瀾(はらん)に満ちた八十年の生涯を閉じたのです。

 * * * * * *

 太平洋戦争終結後の校舎再建に向けての奮闘。昭和二十六年の学校法人仙台育英学園設立。そして孫・加藤昭先生の校長就任、現校長先生である加藤雄彦先生の誕生…。加藤利吉先生は、八十年の生涯を閉じられるその時に、なにを思われたのでしょう。
 「これですべて良し。あとは私の後継者たちが、学園を発展させ、栄光へと導いていってくれるはず。たとえ途中にどんな困難が待ち受けていても、きっとそれを乗り越えて…。
 宮城野校舎・正面玄関の前に建つ利吉先生の像は、そんな思いを抱きながら、静かに微笑まれているのかもしれません。

*この『加藤利吉先生物語』は、おもに奥中惇夫著『ほえろ!ライオン先生』から再構成したものです。太字は同書からの引用です。

 
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