お知らせ

仙台育英学園創立111周年記念同窓会鼎談

学園の未来に向けてのメッセージを
どのように残していくことが
できるか

学園創立111周年を記念して

 

 8月26日(土)、宮城野校舎ゼルコバホールを会場に、仙台育英学園同窓会主催による記念事業、『仙台育英学園創立111周年記念同窓会鼎談』が開催されました。鼎談のテーマは、「仙台育英学園創立111周年を振り返る」。
 ゼルコバホールのステージに登壇したのは、学園理事長・校長 加藤雄彦先生を中心にして、3人の同窓生。
  箕浦 国彦さん(仙台育英学園高等学校 国大進学コース 平成元年卒)
  菊地 恵さん(仙台育英学園高等学校 外国語コース 平成17年卒)
  石垣 光一朗さん(秀光中等教育学校 平成16年卒)
 そしてもう一人、同窓会副会長の久道 周彦さん(昭和50年卒)が司会・進行役として登壇されました。

 
 

さまざまな苦難を乗り越えてきた学園111周年の歴史

 

 ステージは秀光中等教育学校オーケストラ部の演奏から始まり、久道副会長の「仙台育英学園創立111周年おめでとうございます」の言葉でスタートしたこの日のイベントは、加藤雄彦理事長・校長先生の挨拶のあと、同窓生3人が自己紹介。そして、時系列に沿った学園の以下の4つの時期をテーマに、それぞれ同窓生3人と久道副会長が理事長・校長先生に質問するという形で進められました。
 語られた「4つの時期」は、以下の通り。


1 仙台育英学園の黎明期
  仙台育英学園のルーツについて
  「育英塾」創立
  ライオン先生の由来
  建学の精神について 

2 第二次世界大戦からの復興
  仙台育英学園のルーツについて
  空襲による校舎消失と授業の継続
  宮城野原への校舎移転

3 仙台育英学園の発展
  国際交流
  秀光中学校開設
  東北初の中高一貫校、秀光中等教育学校の開校

4 仙台育英学園創立111周年を迎えて
  東日本大震災と学園の復興、宮城野新校舎の落成
  東北初の国際バカロレア認定校に


 各コーナーの中では、箕浦さんが男子校時代の仙台育英について、菊地さんが海外留学の体験について、石垣さんが秀光中等教育学校1期生としての思い出について語り、最後に理事長・校長先生が“仙台育英学園7万人を超える同窓生”に向けてお話され、会は閉じました。
 この会は、加藤雄彦理事長・校長先生が昨年(2016年)11月、教育振興に対する多大な功績に対して藍綬褒章を受章されたことへの同窓生一同によるお祝いの会でもありました。
 以下、登壇された5人それぞれの印象に残った言葉の数々を紹介していきましょう。


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  • 久道 周彦 同窓会副会長

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  • 仙石線宮城野原駅前から真っ黒の塊が
    校門目指してやってくる…


     僕の頃は全校生徒4500人がすべて男子。朝、仙石線宮城野原駅から真っ黒の塊が校門目指してやってくる。男ばっかりで、それはすごい光景でした。3年間勉強して大学へ。薬剤師の資格をとって研究職につきました。今は東北大学病院で薬剤師をやっています。人のためになる仕事をしていきたい、そんな思いが仙台育英での3年間を通して身についたように思います。
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  • 加藤 雄彦 理事長・校長

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  • 宮城野校舎の真の完成の日を
    思い描いての“ゼルコバ”なのです


     今回の会場であるゼルコバホールの「ゼルコバ」、これは日本語で「欅(けやき)」を意味します。宮城野の新しい校舎に誕生したこのホールにゼルコバの名を冠したのには次のような理由があります。
     震災前のかつての宮城野校舎には5本の木がありました。この5本の木は、夏は我々にとても快適な涼をもたらし、狭い宮城野校舎ではありましたが、生徒たちにもホッとする思いをいだかせたはずです。それが、震災で大打撃を受けて、結果、欅の木も伐採しなければならないことになりました。しかし、伐採は忍びないと3本を多賀城校舎に移植し、2本を宮城野に残しました。そして、かつて宮城野校舎に5本あった欅の木のことを忘れないようにしようということで、このホールをゼルコバホールと名付けたのです。秀光の同窓会の名称が、以前から(欅の木が多く植えられている多賀城校舎にかつて秀光があったことから)「欅の会」であることからの意味もあります。
     それともう一つ。この宮城野新校舎、まだ完成には至っていません。2013年春から生徒たちが学び始めましたが、この校舎が本当に完成するのにこれからまだ15、6年くらいはかかると思っています。完成した暁には、新しい欅の木を植えよう、その第1歩として、新しいホールに「欅」の名をつけよう。宮城野校舎の真の完成の日を思い描いての“ゼルコバ”の名なのです。
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  • 箕浦 国彦さん

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  • 大越基選手がピッチャーとして活躍した
    夏の甲子園大会初の準優勝の年に


     私は昭和61年4月に入学して、平成元年に卒業しました。昭和61年といえば、外国語コースが設置された年でした。私たちが入学した時から、仙台育英学園高等学校に女子の入学がスタートした年でした。私は硬式野球部に所属していました。硬式野球部は私が1年生と3年生の時に甲子園大会に出場したのですが、私が卒業した年、平成元年の夏の甲子園で皆さんもご存知の大越基選手がピッチャーとして活躍し夏の甲子園大会での初の準優勝となりました。
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  • 菊地 恵さん

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  • 入学当初から描いていた未来への夢を
    外国語コース3年間を経て実現しました


     平成17年に卒業しました。仙台育英生時代はチアリーディング部に所属していて、今でも忘れられないのはこの当時、軟式野球部が全国優勝した時に応援の場にいられたということです。とても良い経験をさせていただけたと思っています。また、姉妹校への交換留学生として、ニュージーランドに1年間留学もさせていただきました。私は今現在、航空会社(ANA)で客室乗務員として働いています。仙台育英外国語コースに入学したのは、当時から客室乗務員への憧れがあったからだったのですが、その後、いろいろな紆余曲折はありましたが、こうして10代のときに夢に描いた仕事に就くことができたのは、やはり仙台育英外国語コースの3年間があったからだと思います。
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  • 石垣 光一郎さん

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  • 今の仕事の要所要所に秀光での6年間の
    体験で得たものが生きてきています


     私は平成16年に秀光中等教育学校第1期生(秀光中学校から数えると第3期生)として卒業しました。1年生から6年生まで親元を離れて多賀城の学園寮で生活するというとても貴重な体験をしました。私は秀光を卒業後、大学に進学せずに社会に出ました。今思うと、私が現在こうして社会人としてやっていけているのは秀光の6年間、寮生活はもちろん、グリーンスクールやスノースクール、海外研修旅行などの貴重な経験をさせていただくことにより、社会に出ても十分通用するよう成長させていただけたからだと思っています。最近は、2015年と2016年、仙台光のページェントの実行委員長を、歴代最年少の委員長としても務めさせていただきました。この体験の要所要所で、秀光でのさまざまな体験が今に役立っているのだなと実感しています。

加藤理事長・校長

この紙を見て、おまえ、何を感じるか!
読んだ瞬間、身体中に衝撃が走りました


 宮城野校舎GPホールの1階には古い大きな机が置かれています。そして、その机の上には一片の紙が展示されています。この机と、その一片の紙についてお話ししたいと思います。

 東日本大震災の前の宮城野校舎には、現在の建物の前身となる旧「栄光」の建物がありました。堅牢な建物ではありましたが、2011年4月7日の最大余震のときに致命的なダメージを受けました。とりあえずは瓦礫の後片付け作業に入ったのですが、そこには加藤利吉先生がかつてお使いになっていた執務用の机がありました。創立者の大事な机なのだから、まずは後々に残していくために修理しようと考えました。
 その机の引き出しを開けてみたときです。引き出しの奥にもう一つ、秘密の引き出しがあるのを発見したのです。中からは“一片の紙”がでてきました。それが現在ゼルコバホールの机の上に置かれている“紙”です。書かれていたのは、次のような内容です。

土地建物借用願
昭和21年1月10日
理事長 加藤利吉
本校は戦災に遭い、建物及び備品一切を消失し、目下、仙台市長町国民学校においてわずかに授業を行っています。この度、都市計画法によって校地も使用不可能となりました。ついては土地建物をお借りしたい…。

 おおまかにお伝えすれば、上のような内容です。

 私は読んだ瞬間、身体中に電気のような衝撃が走るのを感じました。2011年5月、ちょうどゴールデンウイークのときのことでした。
 私はこの紙が、何故このときに出てきたのかを考えました。
 その紙が出てくるときとは、どんな時なのか。建物を壊す必要があり、そのために机を動かさなければならない時。そんな時なはず。利吉先生は、“その時”のために、この紙を秘密の引き出しの中に入れておいたのではないか。そう考えたのです。
 そして、“その時”とは、まさに今。東日本大震災で校舎が大破し、再築が必要とされる今なのではないかと。  つまり、この紙は「全身全霊を傾けて、今、校舎を建て直せ」という利吉先生から大震災の混乱の中にいる私へのメッセージなのではないかと。「この紙を見て、おまえ、何を感じるか!」という利吉先生から大震災が起きた時の仙台育英学園理事長、つまり私に宛てた強烈なメッセージだと思い至ったのです。
 この利吉先生による“一片の紙”は、私が大破した宮城野校舎を再建していくにあたって、さまざまな困難に直面した時の大きな支えになってくれました。それゆえに、今、この“一片の紙”は瓦礫の中から出てきた机と椅子、そして金庫とともに「偉大な校長の館(Great Principal Hall =G.P. Hall)」に飾られているのです。

 それと私は、この“一片の紙”によってもうひとつ、とても大切なことを学びました。利吉先生が、この“一片の紙”を通して私にとても大切なメッセージを届けてくれたように、「自分も未来に向けてのメッセージを残していかなければならない」ということを痛切に感じたのです。
 未来へのメッセージを残せるか否かが人間の価値の決めるのではないか。とそう思えてきたのです。このことも、今日、皆さんに伝えなければならないと思いました。