お知らせ

キューババレー ミレーヤ・ルイスさん ゼルコバホールで来仙記念トークショー

女子バレー伝説の“鳥人”が
ホストタウン仙台・多賀城へ

キューバ共和国のホストタウンとして

 仙台市と多賀城市は、2020年の東京オリンピック・パラリンピックにおいてのキューバ共和国のホストタウンとしてキューバ代表を応援しています。ホストタウンは、大会開催に向けて、参加国・地域との人的・経済的・文化的な相互交流を行います。その交流活動のひとつとして、『キューバ交流事業実行委員会』(仙台・多賀城・本学園)によるイベント『ミレーヤ・ルイス来日記念トークショー』が12月14日(土)に行われました。会場は本学園宮城野校舎のゼルコバホール。一般の市民の方々に加えて、本校バレーボール部、陸上競技部の部員たちもミレーヤ・ルイスさんのお話に耳を傾けました。
 ミレーヤ・ルイスさんは、キューバ女子バレーボール黄金時代を支えた伝説のプレーヤー。小柄な体格ながら驚異的なジャンプ力とパワー全開のスパイクで世界を沸かせ、“鳥人”とも評されました。

1990年代、五輪、ワールドカップ、世界選手権で計8連覇を達成

 トークショーはミレーヤ・ルイスさんの選手時代の映像からスタート。続くお話は、キューバの農家に生まれた子供時代から始まりました。キューバ代表チームに選ばれて本格的なバレーボール選手としての道を歩み始めたのは1983年、15歳の時。そして、“キューバ女子バレー黄金時代”の幕開けである1989年のワールドカップにおいて初の金メダル。加えて、ミレーヤ・ルイスさん自身はMVPを獲得。ここから、“キューバ女子バレー黄金時代”が幕を開け、1992年バルセロナ五輪、1996年アトランタ五輪、2000年シドニー五輪での3大会連続の金メダル、そしてワールドカップ、世界選手権での計8連覇と信じられないほどの勝利が続きました。この“黄金時代”の快挙の数々を、ミレーヤ・ルイスさん自身、「忘れることのできない素晴らしい思い出の数々」として語ってくださいました。また、金メダルを中国に譲った1986年の世界選手権大会では、大会直前で長女を出産。「娘を産んで21日目での試合出場でした」といったエピソードも披露してくださいました。

当時のフィデル・カストロ評議会議長も先頭に立って応援

 この日は、ミレーヤ・ルイスさんのご主人で元キューバスポーツ大臣のウンベルト・ロドリゲスさんも同席。1990年代当時のミレーヤ・ルイスさんの活躍ぶりについて、「当時のキューバ女子チームは、キューバ共和国のアイデンティティであり、キューバのシンボルだった。試合の時にはそれこそ全国民がテレビの前にかじりついて彼女を中心としたチームの活躍を見守りました」と話し、さらに、「キューババレー女子チームを誰にも負けず応援していたのは、当時のフィデル・カストロ国家評議会議長でした。ミレーヤ・ルイスはキューバの女性たちにとっても最大の憧れの対象でした」と話してくださいました。

日本の子供達には一歩進んで優れているところが

 トークショーの締めとして、ミレーヤ・ルイスさんはスポーツに励む日本の子供たちに向けてメッセージをくださいました。
 「日本の子供たちは、世界の子供たちに比べて一歩進んで、優れている面があります。それは“秩序の正しさ”、“規律を守ることの大切さ”を学び、しっかり身につけていること。秩序を大切にし規律を守ることは、スポーツを学ぶことにおいて一番大切なこと。加えて、これを守りながら“自分はここまで行くんだ”という目標を持つこと。背が低くても関係ありません。家が貧しくても関係ありません。大切なのは気持ち、そして決意です。これがしっかりしていれば、必ず夢はかない、目標へとたどり着くことができるはずです」

 トークショーの進行は、2015年まで仙台放送のアナウンサーとして活躍され、現在はフリーアナウンサーとしてスポーツ実況や朗読指導で活動していらっしゃるアナウンサー・浅見博幸さんが担当してくださいました。  その後、質疑応答の時間が持たれました。2つほど紹介しましょう。

   

●毎日のトレーニングでモチベーションをあげる方法は。
 (陸上競技部・短距離 Fくん)

 日々のトレーニングは、いつも厳しいものです。ですが、厳しい中でも私は次のような思いを常に持ち続けました。「バレーボール選手として世界の6人のトップレベルに入りたい」、「私が引っ張っていくことでキューバチームを国際大会に出場させたい」と…。この目標が自分自身を奮い立たせてくれました。どんなに膝が痛くても、寒い日でも。それと、いつもみんなの手本になろうとも思いました。
 どんなに練習がきつくても、自分の目標を思い出すこと。これにより私は顔を上げて、チームのみんなの気持ちも奮い立たせました。
 それと、「私を待っている人がいる」という思いも忘れないようにしました。待っている人とは、キューバの国民であり、私の家族です。周囲の人たちの期待に応えようという思いも、私を奮い立たせてくれました。泣いてもまた立ち上がることができたのは、まわりの人たちがいたから。そう思います。

 

●スランプに陥ったときの立ち直り方は。
 (男子バレーボール・キャプテン Hくん)

 私は現役選手であった時代に、肩、膝、背骨で3回の手術を経験しました。手術後にはかならず「以前のようにはプレーできないのではという思いにとらわれました。ですが、精神的に落ち込んでいるわけにはいきません。チームのみんなと約束したこと(世界大会に出場しよう!)への責任感、バレーボールを続けていきたいという自分の気持ち、自分にはそれができるはずという思い…。自分自身をうやまう気持ちを失わず、これによりモチベーションを上げ、何度も立ち直ってきました。それと、先にも述べましたが、自分がみんなの手本であらなければならないという気持ち。この責任感により、度々訪れたスランプを乗り越えてきました。

 トークショー翌日の12月15日(日)には多賀城校舎グローリーホールを会場にバレーボールクリニックが実施され、仙台・多賀城市内の中・高校生が参加し、ミレーヤ・ルイスさんの指導を受けました。