意見陳述
上 申 書
平成17年11月15日
川村 桂子
 
 平成17年5月22日のことは一生忘れる事が出来ない出来事です。

 5月22日の早朝、私の携帯に見知らぬ番号から何度も連絡がありました。折り返しかけ直しましたが、なかなかつながらず、その内に知り合いの人から仙台育英の生徒が事故にあったという知らせがはいり、事故の事を知りました。その数分後、また見知らぬ番から携帯に連絡がありました。

 電話に出たところ、救急隊員の方で、「Yさんのお母さんですか?」と聞かれ、Yが今朝ウォークラリー中に事故にあい、病院に搬送されたと知りました。その時は救急隊員の方の話が把握出来ずにいて、上の娘に電話を代わり病院などを聞いてもらい、すぐ駆けつけました。

 そして、あの忌まわしい事故から今月で6か月。家族の生活もようやくこの半年という時間が経ち、元に戻りつつあります。今でも戻らないのがYの笑顔とYの身体です。あの日から娘は心のそこから笑うという事ができなくなってしまいました。何よりも大切な友達の死、自分の身体の自由、楽しい学園生活、家族との団欒、あの事故で無くしたものは数知れません。

 今から取り戻せるものはありますが、一番娘にとってつらいものは、自分の事より亡くなられた友達の事。それは私たち家族にとっても言葉には言い表す事が出来ないくらいショックが大きく見ているのがかわいそうなくらいです。

 現在娘はリハビリや精神科に通っています。身体の方は寒くなってきたこともあり、事故後痛みがひどかった時のように、立てなかったり、歩けなかったり、トイレに行くにも一苦労です。学校には毎週一校時づつ増やしやっとの思いで6校時まで受けることが出来るまでにはなりましたが、本人にとってはずっと椅子に腰掛けているのが大分辛いようです。しかし、クラスの全員で皆勤賞を狙っているとのことで、自分一人の為に皆に迷惑はかけられないと、腰に注射を打ちながらも頑張って登校しております。只、未だに一人でタクシーにも乗れず、横断歩道はもちろんのこと、狭い道路すらも渡れないため、毎日私が一緒に学校へ付き添い、終わるのを待っている状態で、私は仕事にも行けず、やむなく退職せざるをえなくなりました。それと、他のどんな小さな事故でも目にしてしまうと未だ身体がガタガタ震え、泣きじゃくりどうすることも出来ない状態。酷い時は過呼吸になり苦しみ、精神的にも追い詰められ、寝ていても時折飛び跳ねたり、うなされたりして完全には熟睡できず、薬を飲んで生活しています。

 あの日、あんな時間に歩かなければ、被告人が代行で帰宅さえしてくれていたら・・・こんなにつらい思いを娘はじめ誰もがしなくても良かったのにと悔やまれてなりません。ここで娘のY自身が事故後にパソコンに打ち込んでいたものを読みたいと思います。


 死者3名、重軽傷者22名、たった数秒の間に犯人、佐藤光はこんなにもの人数の死傷者を出した。亡くなった人の中には私の友達も含まれていて、楽しいはずの高校生活が一瞬にして消し去られた。

 あの時の歩行者信号は青で私達は社会の基本ルール、「信号は青になったら渡る」という小学生でも理解できるルールを守っていただけだった。なのに犯人は赤信号でさらに飲酒運転で私達の列に突っ込んだ。亡くなった友達とは事故の数分前まで普通に話をしていた。ふと気がついた時にはもう友達は亡くなっていた。

 どうして私達がこんなにも残酷でひどい目にあわなくてはいけないのか?あの日犯人が飲み会さえ行かなければ、運転していなければこんな悲惨な事故は起きなかった。私は事故にあった瞬間を薄っすらとしか覚えていないが、自分は死んでしまったと思った。もう家族にも友達にも誰にも会えないと思い、すごく苦しかった。全身に痛みが走り、やっと自分が生きていることに気が付いた。最初の痛みは下半身だった。足の感覚がなくしびれていた。次はお腹。だんだんはってきて苦しかった。その次に呼吸。うまく呼吸が出来ず、胸が苦しくなった。救急車で東脳神経外科に搬送され、なんとかお母さんの連絡先は答えられた。病院に着いてすぐ処置室に運ばれた。その時まだ生きていたAちゃんが横に居た。しかし処置が始まって数分後にAちゃんの死亡が確認された。数分の間、Aちゃんの横にいた後、私は病室に運ばれた。その時Aちゃんのお母さんとすれ違い、「Aは心配ないんですよね?」と言ったのを覚えている。エレベーターに乗る直前、Aちゃんのお母さんの泣き叫ぶ声が聞こえた。それは今でも耳にずっと残っている。今でも思うが何故そんなに飲み歩き、車を運転しても大丈夫だと思ったのか犯人に聞きたい。私はこれからも犯人を恨み続けるだろう。これから先犯人が社会に出てきたとしても、運転を絶対にしないで欲しい。酒も絶対に飲んで欲しくない。自分が起こした事故で私から大切な友達を奪い、私や他の友達の身体と心を傷つけた事を一日も忘れてほしくない。今でもまだふとした時に車のクラクションの音や、車がぶつかった時の音が聞こえ、心臓がドカドカし、足がガクガクする。人の命はたった数秒で消えてしまう。この事故で改めてそう感じた。自分が生きていることが不思議なくらいだ。だからこの命を大切にしていきたい。飲酒運転、多くの人が一度はしたことがあると思う。でも、もう絶対にしないで欲しい。ちょっとした気の緩みで何人もの命を奪ってしまう可能性があるから。

 命というものの大切さを日頃は忘れてしまっているけれど、一番何にも変えられない大切なものと再認識して欲しい。犯人佐藤光はご飯を食べられ、家族や友達にも会えるが、Aちゃん、Mちゃん、Sくんはもう二度とご飯も食べられないし、家族、友達にも会えない。私は今もズーっとAちゃんとMちゃんの声が聞きたく、逢いたくて、逢いたくてしかたがありません。私から二人を奪った犯人、佐藤光を私は一生許すことは出来ない。

 これが娘、Yがパソコンに打ち込んでいたものです。被告人はまだ15歳のこの悲痛な叫びを聞いて何を感じますか。たった15,16歳の子供達の楽しい事が待っていたであろうこれからの人生、その子供達の成長を楽しみしていたはずの両親や家族の無念さ、そして、もう戻っては来ない子供達の命、生活、心を奪った彼方を娘同様、私も許すことは出来ません。罪を償えば許してもらえるとかそんな問題ではありません。私は悔しさと悲しみでこれまでの公判には来れませんでした。いいえ、出来ることなら娘も私も被告人の顔は一生見たくないと思っておりました。しかし今日、この場に立ったのは矢も得ず自分の娘の思いと娘の大切な友達のためにここで話しました。それからどうしても言っておきたいことがあります。被告人彼方のあさはかな考えによって起こした事故により、ご自分のご両親、ご家族をも苦しめ、そして何よりも遺族、被害者、その家族をも苦しめているということを肝に銘じ、2度3度と同じ過ちを繰り返さぬよう、被告人はその命のある限り、今回の悲惨なこの事故のことを一生忘れることなく、心に深く重んじ、3人の冥福を祈り続け、また灯りを奪われた子供達、心を失くし掛けた子供達のことを絶対に忘れないで頂きたい。

 それからこの場においでになるかと思われます被告人のご両親とご家族の方々にお願いがあります。被告人は未成年者ではありませんが何度となく繰り返されている飲酒運転と被告人自身の名前にも付いている光という字の如く、明るい未来の光を子供達や周りの人達から奪い、苦しめ、また我が子を一瞬にして奪われたり傷つけられたりすることが、どれだけ人の道として外れている事なのかを親として、家族として今一度心を鬼にしてお教え願い、ご家族一丸となり私達被害者への一番の償いとは何かを考えていただきたい。出来る事なら元に戻して頂きたいと思います。

 そして、最後になりましたが裁判長様に、亡くなられた子供達と遺族や、今でも苦しんでいる子供達や家族の心情をお察し頂きまして、被告人、佐藤光に対し、死刑と言いたいところですが、そんな直ぐに楽になれる処罰ではなく、その命のある限り子供達の無念さを忘れる事のないよう、無期懲役のような重い刑の判決を下して頂けますよう、心よりお願い申し上げまして、娘Yの代弁を終わらせて頂きたいと思います。
 
 
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