沖縄の各地で伝統のハーリーをはじめ鯉のぼり祭りなど屋外での催しものが多数開催される季節になってまいりました。
4月27日正午、仙台育英学園高等学校広域通信制課程にとっては3つ目の学校となる『IKUEI LEARNING CENTER 沖縄』、通称 『ILC沖縄』を本日お集まりくださいました皆様のお支えによって開校できますことに本学園を代表して感謝するとともに、皆様から寄せられている本校への期待の大きさに身を引き締めながら職員一同、一丸となって『ILC沖縄』が地域の学校として成長できるように努めてまいる所存です。
本学園が沖縄県に広域通信制課程の学校を設置する理由をご紹介することによって開校式辞としたいと思います。
福島県会津若松出身の本学園創立者 加藤利吉先生は国の命令で1905年2月日露戦争の激戦地の一つ奉天会戦に一兵卒として従軍し、頭部とひざにロシア軍の機関銃の弾を受け、意識不明のまま仙台にある病院に搬送されました。幸いなことに意識を回復したものの、一生涯、後遺症と闘いながら自分の夢であった青少年への中等教育を果たそうと努力されました。
そもそも仙台の出身でもなく、周囲には親戚縁者もいませんでしたが、「負けたくない。」、会津弁で「負けっちゃくない。」の一心で、戦争の恐ろしさと平和の尊さを若者たちに教育を通して生涯ご指導されました。
その息子である栄吉先生も明治新政府関係者、すなわち鹿児島県、山口県を中心とする西軍出身者から厳しく差別され、会津若松出身であるだけで「朝敵、賊軍」のそしりを受ける時代にあって、その汚名を晴らすため、海軍兵学校に入り、海軍士官として軍役に就かれ、1946年8月1日、太平洋戦争終結後の1年後、南方戦線の責任者、海軍司令官しての職務に対するB級の戦争犯罪人として銃殺刑に処せられ、帰らぬ人となりました。
私の祖父にあたる栄吉先生は戦争が終わり、日本が平和な世の中になったら創立者 加藤利吉先生の跡を継いで私学教育に力を発揮するつもりだったと伺っていますが、その夢はついえてしまいました。
生前、祖父が海軍士官として歩んだゆかりの場所に広域通信制課程の学校を設置することによって私学教育に携わる私が往事のご恩をお返しできるとの一念で2002年4月に青森県八戸市に『ILC青森』を開校し、2014年4月27日に『ILC沖縄』を開校できますことは、この上ない慶びと感動で一杯です。
那覇市と豊見城市の境に所在する小禄旧海軍司令部壕には1945年4月1日から始まった沖縄本島戦、人類史上最悪、最大の地上戦で沖縄の皆様が自らの命も顧みず国土防衛に粉骨砕身努力されたことを認める海軍司令太田実中将の言葉が残っています。沖縄県知事に代わり、「沖縄県民かく戦えり、この後は沖縄県民に対し特段のご配慮を願う」ことを伝え、辞世されたときの思いを私は沖縄を訪れるたびに考えながら、さらに戦争の理不尽さを唱えてきた創立者加藤利吉先生、そして息子の栄吉先生が理想としていた平和国家への願いと重ね合わせながら、自分ならば何ができると自問してきました。
その答えがこの沖縄市で『ILC沖縄』を開校し、地域のニーズに答えながら、仙台育英学園の建学精神である「至誠・質実剛健・自治進取」の私学教育を展開するということです。直木賞作家の早乙女貢先生から生前私がいただいた言葉に「天に星あり、地に花あり、人の心に誠あり」がありますが、これこそわれわれが目指す教育の在り方なのです。
沖縄市は本島中心部に位置し、戦後のさまざまな困難にも立ち向かい、乗り越える力をもっている町です。21世紀に発展する都市としての期待が高いだけに『ILC沖縄』もこの場所でしっかりと足元を固めながら飛躍させていくつもりです。
本日ご出席くださっています
沖縄市長 東門 美津子様
沖縄県教育庁中頭教育事務所長 浜口 茂樹 様
沖縄市小中学校校務研究会会長 吉田 直人 様
沖縄県私立中学校高等学校協会会長 名城 政一郎 様
沖縄大学国際コミュニケーション学科教授 上地 幸一 様
株式会社富士建設会長 手登根 順信 様
沖縄銀行宜野湾支店支店長代理 知念 友恒 様 ご一同様
コザミュージックタウン総括管理 石原 信吾 様
そしていつも笑顔でILC沖縄に向けて応援してくださってきた
沖縄国際大学英米言語文化学科准教授 尚 真貴子 様
はじめご参会の皆様のお力のおかげでいよいよILC沖縄を開校できますことを、改めて感謝いたします。本当に有難うございます。
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