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2020.02.13

ILC青森 卒業生の保護者の方からメッセージが届きました

ILC青森の卒業式に参列された保護者の方から、温かいメッセージが届きました。
ご紹介させていただきます。

 

校長先生の涙

 ある通信制高校の卒業式に参加する機会がありました。
 式に相応しい服装をした卒業生や夜の棲客業と見間違える服装の卒業生だけでなく、私と近い年齢と思われる着物姿の卒業生など、50名程の卒業生の年齢層や服装からは、今まで歩んで来た決して平坦ではなかったであろう『道』が伝わってきました。
 私語1つない厳かな卒業式もいよいよ卒業生代表による「答辞」となりました。
 その答辞は「私は不登校でした。」から始まりました。その後、涙がこみあげてきたようで、彼女の答辞は長い沈黙が続きました。その後ハンカチで涙をぬぐいながら嗚咽しながら彼女は『中学校の時に不登校になってしまった。夢も希望も無くなり、自暴自棄となっていた私は、姉に勧められこの学校で学び始めた。学んでいくうちに私は夢を持った。その夢とは歯科衛生士になることだ。その夢を叶えるために進学します。こんな私を支え続けてくれてありがとうございます』と涙声のままで答辞を締めくくりました。
 その子の答辞を温かいまなざしで見つめていた校長先生のほほにも大粒の涙が流れていました。その校長先生は、中学校や高等学校をたくさん有する、誰もが知っている有名な学校法人の校長先生で、今まで授与された「卒業証書」 はおそらく数千枚もの数になっていると思われる方です。
 この校長先生はこの通信制高等学校の校長先生も兼ねており、多忙な日程にも関わらず、この一地方都市の通信制高等学校の30分ほどの卒業式のためだけに、数時間もかけて来てくれたのでした。この校長先生の「30分」への思いと、恐らく初めて会ったであろう卒業生の答辞の最中に流れた大粒の涙をみて、教育に携わる者の姿や「長」として、何を一番大事にしなければいけないのかなど改めて考えさせられ、自身の未熟さを思い知らされました。
 
 飲食業の長男として板前の父の下で育った私は、中学校卒業と同時に板前の修業に行かされる予定でしたが、実家の飲食店に毎日のように飲みに来ていた当時のT中学校の先生方に父は説得され、どうにか高校への進学が許されました。高校卒業後、板前の修業に行く事にしていた私を、今度は当時の高校の先生が「大学に進学し、陸上競技を続けるべき。」と父を説得し、大学へ進学する事となりました。
 大学卒業時は、某大手自動車会社の新設陸上部の監督の内定までいただいていましたが、諸々な事情が発生し泣く泣く帰省し、K市の小学校で講師としての生活がスタートしました。
 その後、H市の某企業に採用され、ここでの仕事を生業とするはずでしたが、予想だにしなかった事が繰り返し発生し、退職を余儀なくされ実家に籠っての先の見えない無職状態が長く続きました。
 このように、小さい頃から「先生になりたい」 という、明確な意志や夢もなく、挫折感や絶望感、無力感、劣等感に苛まれ、彷徨い続けた時があった私が、気がつくとこの職業を30数年間も続けていました。これも一重に、今まで出会って来た多くの子どもや素晴らしい先輩、同僚のおかげだと感謝しながら、母校・T小学校での残り少ない日々を過ごしています。
 いろんな理由で『普通の高校』に進学しない(できない)子、『普通の高校』を中途退学した子たちが多い「通信制高校」で学んだ子たちは、「道を外れた」、「夢と希望を失った」、「社会から遮断された」と、挫折感や絶望感、無力感、劣等感に苛まれる時間もあったかも知れません。
 
 式後、それまでお世話をしてくれた通信制高校の先生たちと笑顔で写真を撮る姿に、心が荒んでいた時や自暴自棄の時、無気力な時もあったであろう子ども達に、夢と学ぶ命を与えんと、真摯に向き合い寄り添いながら育ててくれた通信制高校の先生たちを、あの子たちは『恩師』よりも『恩人』として、一生心の中で会話し続けていくのでしょう。
 
 通信制高校の卒業式で出会ったあの子たちの笑顔に接し、若い時に通信教育も経験しただけでなく、紆余曲折の遠回りをして、今にたどり着いた私は、「道は無数にある。焦るな。大丈夫だ。人生100年のうち、この2-3年は『誤差』みたいなものだ。気にするな。頑張れ! 」と、今後のあの子たちの長い人生に幸多かれと、心の中でエールを送り続けていました。

 

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