●優良賞
モーツアルトの姉、
ナンネルについて


3年M1組 星さん


 

 私はこのユーロ研修で、モーツアルト記念館に行った。そこにはモーツアルトに関する様々な物があった。私はその中でもモーツアルトの姉、ナンネルに惹かれた。なぜなら私はモーツアルトに兄弟が居ることすら知らなかったからだ。それに、モーツアルトのような神童を弟に持った姉ナンネルはどのような生涯をおくったのかについて興味がわいたこともある。私はモーツアルトの姉、ナンネルについて調べることにした。

 このときのモーツアルト[Wolfgang Amadeus Mozart](1756−1791)出身地はザルツブルグ。モーツアルトは幼児期より天才をあらわし、当時のあらゆるジャンルに傑作を残した。バッハやベートーヴェンとともに西欧的な美の典型のひとつをなし、近年にいたるまで作品・人物ともに神格化・神話化された。8歳で最初の交響曲を書き、32歳で最後の交響曲「第41番」を書き上げるまで、24年間の作曲活動のほぼ全般 にわたって交響曲を書き続けた。

 モーツアルトの姉、ナンネル[Maria Anna Walburga Ignatia Mozart](1751−1829)も早熟した才能を見せた。弟ヴオルフガングとともに父レオボルトに連れられて、ヨーロッパ各地で見事な演奏を披露した。しかし神童を弟にもった姉ナンネルは、やがてモーツアルト一家がその神童のためにすべてを犠牲にしていく中で、幸福にはいかなかった。周囲の目は否応なく弟の方へ向いていき、姉は忘れ去られていってしまった。左は11歳のとき。マリア・テレージア女帝に招かれ、宮中の礼装を贈られた。

 ナンネルは1784年にフォン・ゾンネンブルクと結婚したのち、3人の子供(Leopold Alois Pantaleon 1785-1840, Johanna 1789-1805, Marie Babette1790-91)を産み、1801年までザンクト・ギルゲンにある母アンナ・マリアの生家で暮らした。

 1801年、ナンネルは50歳で未亡人となり、その後20年間ザルツブルクでピアノ教師として暮らし、失明して9年後の1829年10月29日に78歳で死んだ。墓はザルツブルクの聖ペテロ教会の墓地にある。

 1823年(72歳)のとき、父親思いのナンネルは遺言状に「聖セバスティアン教会の墓地にある父親の墓に埋葬されること」を望んだが、コンスタンツェが1826年に没した夫ニッセンをそこに埋葬し、さらに自分の血縁のウェーバー家にまでその墓を提供したことから、この侮辱的な仕打ちを憎み、遺言にその願いを破棄することを追加した。

 聖ペテロ教会は1783年10月26日に弟ヴオルフガングが新妻コンスタンツェを伴って帰郷したときミサ曲「ハ短調」K.427を指揮した所である。ナンネルは生前ここに自分の墓を確保した。

 弟ヴオルフガングの死後、日に日に高まるモーツアルトの名声と共に、その伝記の貴重な資料としてナンネルの証言が求められることが多くなった。1792年、ナンネルはシヤハトナー(ザルツブルク宮廷楽団のトランペット奏者)に弟ヴオルフガングの子供時代の回想を求めた。

 モーツアルトが音楽に関することで姉ナンネルのあるものに大いに影響を受けたことがある。それは「ナンネルの楽譜帳」によってである。この楽譜帳はもちろん父レオボルドが7、8歳の娘ナンネルのハープシコードのレッスン用として編んだものであり、音楽の基礎・楽典の勉強用としても用いられていたものである。これは横長の比較的小型の楽譜帳で、古色蒼然とした紙表紙がついていて、レオボルドの手跡で《クラヴサン用。この楽譜帳はマリー・アンヌ・モーツアルト嬢のもの 1759年》とフランス語で書き出されており50曲ほどの小品が収められいる。この楽譜帳を使ったナンネルの勉強を、3歳になるモーツアルトはいつも傍らで聞いていたのである。そしてあるとき、姉の練習の後ハープシコードに近寄って、自分で三度の和音を弾き出してご満悦の様子であったことがナンネルの証書で明らかとなっている。この楽譜帳は当然のことながらウオルフガングのテキストブックとしても使われるようになり、レオボルドはこの中に息子の勉強した記録を多く書き込んでいる。これは、父親レオボルドが息子にハープシコードの手ほどきを始めたが、その才能が並々ならぬ ものであることに気づき、ようやく5歳の誕生日の直前になって正確な記録を残しておこうとしたようである。そして、この楽譜帳には多くのモーツアルトの初期の作品が書き込まれることとなった。

 この「ナンネルの楽譜帳」は彼女自身が80歳高齢で死去するまで彼女の所有であった。彼女の死後甥にあたるもの末子フランツ・クサーヴァー・ウオルフガングの手に渡った。彼の死後、2人ほどの手をへて1864年モーツアルテウムに寄贈された。

 ナンネルの死の3ケ月前、イギリスの音楽出版者ノヴェロが妻を伴って、やせ細った彼女を訪ねている。彼らは「モーツアルト巡礼」を計画し、ザルツブルクを訪ねたのだった。そのとき案内したのはフランツ・クサヴァーだという。

 ザンクト・ギルゲンの家は1983年から「モーツアルト記念館」となった。壁には、母と娘ふたりだけのレリーフがある。

 偉大なる天才音楽家の弟を持ったために陰に隠れてしまったナンネル。けれど彼女は弟を恨むような真似はせず、弟の名声の為につつましく生き、そのような生涯をおくったナンネルを私は素晴らしいと思う。

 
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