●優秀賞
モーツアルト研修紀

3年M1組 勝見さん


 

 私はこの自主研修のテーマを本当は「ウィーン音楽研修紀」にするつもりでいた。しかしヴエルヴェーレ宮殿の中で体調を崩してしまいウィーンでの自主研修が出来なくなってしまった。これでは、この論文の規定である2000字には届かないと思い、題を変えたのである。(とはいっても、ザルツブルグのことが少し入るだけであるが……。)

 また、先ほどウィーンで自主研修が出来なかったと書いたが、このためウィーンに関する記述はインターネットや本から集めたものが多い。なるべくそれらは参考程度にしているだけだが、もし似通 っている部分があればどうかご了承いただきたい。

 先に、どうして私がモーツアルトを自主研修のテーマにしようと思ったのか、単純である、事前研修のときにパンフレットをもらったのだがそれを見て、

 オーストリア→ウィーン、ザルツブルグなどの都市→音楽の都、モーツアルトの生まれ故郷→やっぱりこれは音楽しかないでしょ!!

 という考えである。しかしこの単純な考え方がすぐに悲劇を生む。ウィーンで活躍した音楽家の数が多すぎるのである……。

 そこで、オーストリアの有名人といったらやっぱりモーツアルト!!という考えでモーツアルトを選んだのである。でもやっぱりこれも悲劇となるのである……。

 前置きが長くなった。そろそろ本題に入ろう。

 ウィーンの簡単な歴史から。ウィーンはそもそもローマ帝国によって開かれた。ウィーンはちょうど帝国の北の協会に位 置し、ここにウインドボナという宿営地がおかれた。これがウィーンの地名の起源といわれている。時は過ぎて1155年、当時オーストリアを治めていたバーへンベルグ家が都をドナウ川沿いの交易地として発展したウィーンへと遷都した。ここからウィーンは本格的な発展期を迎える。バーヘンベルグ家はほどなくして断絶するが1278年オーストリア公となったハプスブルグ家は政略結婚により他の王国を相続し、16世紀半ばにはヨーロッパ最大の帝国を築いた。ウィーンはその首都として栄えたのである。なぜ、ウィーンは音楽の都となったのか?それはハプスブルグ家が音楽を愛し、音楽家たちを手厚く保護したからであるがそれだけではなく、ウィーンがヨーロッパの中央に位 置していたため交通の便が良い都だったからではないかとも私は考えている。

 ウィーンで活躍した音楽家の名前の一部を挙げると、モーツアルト、ベートーヴェン、ハイドン、シューベルト、ヨハン・シュトラウス父子などそうそうたる顔ぶれである。前にも話したがここでは生まれも育ちもオーストリアであるモーツアルトについて書こうと思う。

 ヴォルフガング・アマデウス・モーツアルトは1756年1月27日ザルツプルグにて生まれた。なお、このミドルネームであるアマデウスとは本名ではなく洗礼名のテオフイロス(ギリシア語で神を愛するもの)の意訳である。父は世界で初めてヴァイオリンを練習するための本「ヴァイオリン奏法」を書いたレオポルド・モーツアルト、母はアンナ・マリーア・ベルトルで五歳上に姉のナンネルがいた。彼は五歳で作曲するなどのものすごい神童ぶりを発揮したため最初姉のナンネルを売り出すつもりでいた父のレオボルドは五歳年下のモーツアルトを売り出すことにしたのである。そうしてはじまった演奏旅行の中にウィーン演奏(マリア・テレジア御前演奏)があった。この演奏場所はシェーンブルン宮殿の「鏡の間」ではないかといわれている。ここで有名なのがマリー・アントワネットが転んでしまったモーツアルトの手をとったというものであるが、それは作り話らしく、実際は父レオボルドが「陛下の膝に上がり首に手をまわして上品にキスをした」と書かれているだけである。余談ながらモーツアルトについて書かれた最初の伝記は妻のコンスタンツェ・ウェーバーが後の夫となるゲオルク・ニコラクス・ニッセンによって書かせたものでありあまりにもモーツアルトを賛美しすぎていることから現在ではモーツアルトの資料としてはあまり使われていない。

 ザルツプルグで生まれ、父レオボルドはザルツブルグ大司教の宮廷楽長であったが、ザルツブルグ大司教と御前演奏を許可してもらえなかったことで衝突、解雇されそのままウィーンに定住してしまった。

 その1年後、モーツアルトは父レオボルドの反対を押し切ってコンスタンチェ・ウェーバーと結婚した。モーツアルトは生涯で6人子供をもうけたが、幼年期を乗り越えたのはそのうちの二人で、また末っ子のフランツ・クサーヴァーが産まれてからわずか5カ月後にモーツアルトは35年の短い生涯を終えてしまう。なんとも不幸な子供たちである。

 ウィーンに引っ越してからモーツアルトはハイドンやベートーヴェンなどと会うようになる。
1785年ハイドンに会った時、モーツアルトはハイドンから音楽についての賛辞を受けたことから、モーツアルトはハイドンに弦楽四重奏曲(ハイドン・セット)を送った。翌1786年、オペラ「フィガロの結婚」をブルク劇場にて初演、翌1787年「フィガロの結婚」大ヒットしたプラハを訪問、また、4月にはベート−ヴェンがモーツアルトを訪問するが、五月に父レオボルドが亡くなってしまう。また、この頃から借金依頼が頻繁に行われるようになったという。

 モーツアルトが死去した1791年のモーツアルトの主な行動はプラハで行われたレオボルドニ世のボヘミア王戴冠式に同行、また、シカネーダー一座のためにオペラ「魔笛」を作成した。7月にはフランツ・クサーヴァーが産まれるが、健康を崩し、11月から悪化、7月にフランツ・ヴァルセック伯爵から匿名で依頼を受けた「レクイエム」の作曲を終えることなく、12月5日午前1時ごろ、35歳の生涯を閉じた。なお、「レクイエム」はモーツアルトの弟子であるジュスマイアーによって完成したが、このフランツ・ヴァルセック伯爵、「レクイエム」を自分の作品として発表しようとしたのである。結構図々しい。

 モーツアルトは郊外のセント・マルクス墓地に埋葬されたが、同行者がいなかったため、正確な場所は分かっていない。よってウィーン中央墓地のモーツアルトの墓には遺骨は入っていない。また、モーツアルトの墓の位 置が分かっていないのは彼が貧乏で最低額の料金で葬式を挙げたからといわれているが、実際は当時の法律が「ぜいたくな葬式を禁じる」というものであったかららしい。実際に、当時の棺桶は底が開き、底から遺体を地面 に出せるようになっていて、再利用可能であったそうである。

 さて、ここからはザルツブルグ研修の話に入ろう。写真が館内撮影禁止であったため写 真がないのでわかりにくいと思うが、どうかご容赦いただきたい。

 私が行ったところはモーツアルトの生家とモーツアルトの住居である。モーツアルトの生家はショッピングストリートであるゲテライテ通 りに面している。狭い階段を上がっていくとまず、台所が見える。当時、台所は住居と別 な場所にあったようである。モーツアルトの生家の中にはモーツアルトが幼少期に使ったヴァイオリンや父レオボルドの著書「ヴァイオリン奏法」や直筆の手紙、当時の食器やベッド、馬車、オペラ用の衣装などが展示されている。また、面 白い展示物にオペラで雨、雷、風の音を出す道具も展示されている。これらの道具は実際に触ることができる。もちろん音もでる。ここで説明すると面 倒なことになるので、ぜひ現地に行ってみてほしい。百聞は一見に如かず、である。肝心の音はというと、風と雷はそれらしい音を出すのだが、雨はどうも大雨の音しか出せないようである。

 モーツアルトの住居はモーツアルトの生家から徒歩10分ミラベル庭園の近くである。ここは生家よりものすごく大きく小さな舞踏会を開けそうなくらいである。ここには日本語ガイドもあり、これは使い方さえ分かればすごく便利である。なかには、モーツアルト家が愛用した銃やチェンバロ、クラヴィコード、モーツアルトが作曲した楽譜やモーツアルトの演奏旅行の軌跡などが展示されておりとても楽しい。また生家のほうにはなかったお土産店もある。もしオーストリアにいく場合はここの二つとウィーンにあるフィガロハウスに是非行ってもらいたい。しかし現在、フィガロハウスはモーツアルト生誕250周年記念のため、改装中である。

 最後に私はこの自主研修で音楽を学びたかった。しかし、学んだのは健康管理の大切さのほうであった。今度は京都研修がある。このEURO SCHOOLで学んだものを生かし、より良いものにしていきたいと思う。

 
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