●優良賞
モーツアルト オペラ考

3年M2組 渡辺さん


 

 小さな頃から、モーツアルトの曲を聴くと、いつもブワーンという感じで頭の中でモーターが回り始める感覚におそわれる。それは決して嫌な感じではなく、むしろ心地良い気分なのである。最近では「○×に効くモーツアルト」という類の本が出版されるなど、彼の楽曲を音楽以外の分野から研究する学者達も出てきている。僕の住む福島県のある酒造会社では、日本酒の製造過程において、酵母が発酵する際、蔵の中でもモーツアルトの曲を流している。そのことでお酒の味が格段に良くなるそうだが、僕は未成年なので、残念ながらまだ試してみることができない。

 とにかく、モーツアルトの曲は身体に対して心地良いものだと思う。実際、僕も彼の曲は好きである。特にオペラはおもしろい。何年か前に、東京文化会館で「コシ・ファン・トゥッテ」を観た。原語上演で日本語字幕であったが、思いっ切り笑ってしまった。訳した言葉を見ると、「そこまで言ってしまって良いのですか?」と言ってしまいそうなほど過激な台詞や軽妙な掛け合い。それが彼の魔法のようなメロディの上に乗っけられ、ノンストップで僕の頭の中になだれ込んでくる。3時間余りの上演時間がとても短く感じられるぐらい楽しい舞台だった。

 「コシ・ファン・トゥッテ」はその物語の滑稽さから、日本オペラの黎明期における「浅草オペラ」の舞台でも翻訳され、上演されている。この作品の中に僕は落語のようなノリを感じた。それと、モーツアルトの曲には日本の小唄、端唄(はうた)、都々逸(どどいつ)、流行歌(はやりうた)、辻(つじ)演歌などに通 じる部分があるような気がする。だから当時の、まだ西洋の音楽にさほど慣れていない人々の耳にも受け入れられたのではないだろうか。他に上演された作品は、「魔笛」があり、それはやはり曲の面 白さ、歌詞の言い回しの軽妙さがウケたのだと思う。

 来年は「ドン・ジョバンニ」を観る予定だが、この作品の有名な初めの部分はヒステリックで、いつ聴いてもそのあとにわさわさと歩き回りたくなるのだ。この物語もかなり人間の毒々しい部分を皮肉ったうえ、最後に主人公のドン・ジョバンニが地獄へ落ちるという身も蓋もない結末のものだが、モーツアルトのオペラに出てくる人物像は、どれをとっても弱く、ずるく、どうしようもない奴が多い。しかし、なんとなく憎めないのである。ヒーローやヒロインも完璧ではなくどこか抜けた所がある。つまり、とても人間くさいのだ。そのせいか、登場人物になんとなく親しみがわいて、自分やまわりにいる人間を重ねて見てしまったりする。そのストーリーの上に重なるメロディが、実際に聴いている人間に、作品の登場人物の感情の動きを同調させるように働きかけてくるからもうたまらないのである。とにかく、モーツアルトのオペラは面 白いのだ。

 今回ユーロスクールに於いて、モーツアルトに由来する場所をいくつか訪ねる事になった。そうすることで、今まで触れてきた彼の作品が、どのような場所で生きられてきたのか、写 真等だけではわからなかったものを感じることが出来るのではという期待を持って出かけていった。

 宮廷音楽家だったことで彼は王族や様々な貴族と交流を重ねた。豪華な美術品や宝石や調度品の中で、ぜいたくな食事をし、着飾ったそれらの人々は上品な会話を交わす。しかし彼は、その裏にある下品な心や、互いをさぐり合うやりとりなどを見抜き、自分の作品の中に、ユーモアの衣をかぶせてそれらを描いたのだ。

 実際、シェーンブルーン宮殿など行ってみて、かなり圧倒された。しかし、モーツアルトの生家や彼の生活していた空間は質素であった。結局「普通 」の生活をしていたモーツアルトから見て、貴族たちの生活とは、「あんたたち、一体何をやっているのですか?」と言いたくなるのだったのだろう。その気持ちを作曲という方向に持っていき、作品を生み出す力になったのである。

 どんなに立派な器があっても所詮人間であるかぎり完璧には成り得ない。心の中には善も悪も常に両方存在しており、互いに出たりへこんだりの繰り返し。まあ、肩の力を抜いて笑ってしまえば良いのでは?と言っているモーツアルトと出会えたような気がした。

 しかし、亡くなられてから何百年もたっているのに、これだけ人々を虜にする作品を生み出したモーツアルトってやっぱりすごいと、美しいザルツブルグの街並みを歩きながら、あらためてしみじみ思った旅だった。そして帰国した今、写 真をながめながら、つい彼のCDに手を伸ばし、「ドン・ジョバンニ」の例のわさわさ歩きたくなる部分を聴きながらこの原稿を書いている。何年か過ぎた時、再びザルツブルグを訪れ、もう一度ゆっくり、モーツアルトの足跡をたどれたら良いなあと思った。

 
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