学園創立100周年に 向けて記念企画】 学園創立者 加藤利吉先生物語

《第1回》 誕生から東京への 旅立ちまで
 
■3年後にやってくる学園創立 100周年
 宮城野校舎。正門入り口から栄光の校舎に続く階段 を上り、入り口へと曲がろうとすると、その手前で私たちは一体のブロンズの胸像に 出合います。顔には時代を感じさせる丸い眼鏡。優しげな雰囲気をたたえながらも、 しかしキリリとした表情で前方の空間を見つめています。
 多賀城校舎。ライオンズホールの中庭にはひとつの塔がそびえています。そ の塔の一面 には、初老と思われる男性の姿が浮かび上がっています。老年に至る年代らし いとはいえ、その表情からは年を重ねても衰えることのない精悍さが見て取れます。
 そして、ところは飛んで、福島県会津若松市。白虎隊で有名な飯盛山。鶴ヶ 城や会津の町、磐梯山を望む一角にひとつの碑が建ちます。碑の表面 には、 学校法人 仙台育英学園 創立者 加藤利吉翁 1882〜1962  
 そう、これらすべては私たちの学園の創立者である我らがライオン先生、加 藤利吉先生の像です。3年後2005年は加藤利吉先生が学園を創設して百周年を迎える 年。その祝福すべき年に向かって私たちの日々の歩みを進める一方で、少しずつ加藤 利吉先生の足跡を辿ってみることにしましょう。今回は、その第1回です。


■戊辰戦争の傷跡が
会津の人々の心に

 「明治15年(1882年)12月3日、加藤利吉は父加藤 利喜次郎、母こまの次男として会津若松市(当時は若松市)に生まれました。」
 加藤利吉先生の生涯を描いた本『ほえろ!ライオン先生 学園創立者 加藤 利吉先生物語』(奥中惇夫 著)のストーリーは、この一文から始まっています。
 明治15年。戊辰(ぼしん)戦争の傷跡が、会津に生きる人々の心にまるで昨 日のことのように生々しく残っていた時代です。『ほえろ!ライオン先生』には、こ の時代に生を受けた少年利吉先生の姿が次のように描かれています。
 「俺たちは会津軍だ。卑怯な官軍をたたきのめせ!」
 「俺だって会津軍だ。白虎隊だ」
 ……
 「お前だって白虎隊やりたいだろ。会津の者は、誰も官軍なんかになりたく ないんだ。あんな卑怯者になりたくないんだ」
 ……  
「暴力でいじめる奴は嫌いだ。俺はあいつらとの戦争ごっこはやめるから、お 前もやめろ。戦争なんか、良くないよ。俺はな、卑怯者なんかいない、争いのない世 界を作りたいな」


■幼い頃から学問に深く親しんで
 利吉先生の家は米屋を営んでいました。次男として 生まれた利吉先生は、幼い頃から学問に深く親しんでいたようです。
 利吉は本を読むのが好きで、幼いころから四書五経(ししょごきょう・中国 の昔の書物、大学・中庸・論語・孟子の4つの書物と、易経・書経・詩経・礼紀・春 秋の五経)に親しんでいました。普通 漢文は中学へ入ってから学ぶのですから、小学校の3年ぐらいで漢文を読むな んて大変なことです。
 「子曰(しのたまわ)く、苟(いやしく)も仁(じん)を志せば、悪(に く)むこと無きなり」(先生がおっしゃった、仮にも人間愛を心に持つことを志した ら、その人は悪事を行う恐れは無い、と)

■もっと自分に向いた仕事があるはずだ
 加藤利吉先生は、幼い頃から勉強に励みました。一 方、家業である米屋の仕事にも精を出しました。ですが、利吉先生は次男坊。家を継 ぐのは長男、という時代です。16歳になったころ、利吉先生の頭の中には一つの疑問 がわいてきました。
 「俺はこんなことをして一生を終わらせてよいのだろうか…。いや、そ んなことはない。何か俺に合った仕事がある筈だ。もっと俺に向いた仕事が…。うん と勉強して何か俺に向いた仕事を探して頑張らなければ、生まれてきた甲斐がない」

■そうだ、東京へ行って勉強しよう
 「父さん、俺、東京へ行く」
 「え!?」
と利喜次郎はびっくりしまし た。
 「東京へ行って、もっと勉強をしたい」
 「東京ってお前、江戸のころと違って薩長が勢いを持っているんだぞ。そん なところで…」
 「だから勉強するんだ。政治家や軍人は薩長が独占しているか知れないけれ ど、学問は一人一人の頭の問題だから、薩長の派閥で独占というわけにはいかないだ ろう。才能があれば世の中に認められる。俺、もっと勉強して、自分の才能を力一杯 試してみたいんだ」  「でもなぁ」
 「会津にいたって、やれることは限られている。俺は会津が好きだ、大好き だ。だから学問で身を立てて薩長の奴らを見返してやりたい」  
  ………

 こうして加藤利吉先生は16歳にして、単身、東京へと旅立ちます。学資とし て、炭百俵を持って…。  
 
 
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