学園創立100周年に向けて記念企画】 学園創立者 加藤利吉先生物語

 
《第2回》東京で学び、教えるように
 
 「東京へ行って、もっと勉強をしたい」
 「会津にいたって、やれることは限られている。俺は会津が好きだ。だから学問で身を立てて薩長の奴らを見返してやりたい…」


■英語を身につけ、世界に出てみたい
 こうして東京へと旅だった青年・加藤利吉先生は、生活と学問の資金のためと受け取った炭百俵を売りながら、学問への道を歩み始めます。
 利吉先生が上京して入学したのは神田猿楽町の東京学院。ここで国学・漢学を学びます。利吉先生が幼い頃から四書五経に親しんでいたことについては前号でお話ししたとおり。東京学院では抜群の成績を残したようです。  明治34年3月に、利吉先生は東京学院を卒業しています。しかし、東京で3年間勉強するうちに、青年・加藤利吉先生の夢はさらに大きく広がりました。
 「狭い日本にいてはだめだ。世界で一番
広く使われている言葉の英語を身につけて、窮屈な日本を飛び出し、イギリスやアメリカに渡って世界のいろいろなことを学びたい」
 そこで、神田正則英語学校に入学して英語の本格的な勉強を始めます。まさに現在の学園の精神、「国際理解」「グローバリゼーション」は、このとき利吉先生の胸に芽生えていたようです。正則英語学校は、明治37年(1904年)に卒業しています。

■学びながら子供達に英語を教えるように
  神田正則英語学校でも利吉先生の才能は発揮され、英語の上達ぶりは群を抜いていたようです。
 しかし、いっぽうでは炭百俵を売って得た資金は底をついてきました。そこで、利吉先生は住み込みで米屋で働きながら学校に通 うようになりました。さらに子供達に英語を教えるようにも。教える子供の数はしだいに増えて、やがては塾のようなものへと成長していきました。


■ヘンリーと出会い、 横浜で塾を…
  利吉先生がアメリカ人ヘンリーと出会ったのはしばらく後のこと。子供達に本格的な英語を教えたいと考え、利吉先生は外国人の教師を募集したのです。そこに応募してきたのがヘンリーでした。
 利吉先生はヘンリーに交換条件を出しました。ヘンリーが利吉先生と塾の子供達にネイティブの英語を教える。そのかわり利吉先生がヘンリーに日本語や漢詩を教えるというもの。ヘンリーは利吉先生のこの申し出を快諾。2人3脚の日々が始まったのでした。

 利吉先生はヘンリーとともに横浜にあるヘンリーの家で塾を開きました。利吉先生は生徒達に国語・漢文・数学を教え、ヘンリーは英語を教えました。もちろん利吉先生とヘンリーの2人も、ときに先生になり、生徒になって教え合いながら。


■失意の利吉先生に 届いた召集令状
 天気の良い日には、カレン(ヘンリーの娘)とともに横浜港の埠頭を散歩することもありました。そんなとき、利吉の心は何となくときめくのでした。
 荷揚げする外国船を指さして、
 「あの船に乗って外国へ行きたい。世界の国々を見たい。世界中のいろいろなことを知りたい」…

 『ほえろ!ライオン先生』(奥中惇夫著)には、利吉先生の横浜での楽しく充実した日々の様子が、このように描かれています。
 しかし幸福な日々は長くは続きません。ヘンリーは父親の病気により、一家でアメリカに引き揚げることに。そして利吉先生には召集令状が届くことになるのです。時は明治37年(1904年)、日露戦争が始まった年のことです。
 
 
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